スポーツ

スポーツ活動は誰のものか
谷口輝世子

 先日、コロラド大学のジェイ・コークリー名誉教授に話を聞くことができた。スポーツ社会学の教科書を書き続け、その中には翻訳されて日本で出版されているものもある。体育・スポーツ研究の大家だ。
 見知らぬ外国人記者である私を自宅に招き、「なぜ、親は子どものスポーツ観戦で熱くなるのか」という質問に丁寧に答えていただいた。同教授の話には「選手をクリエイトする」というキーワードがあった。
 最近は、子どもがよい選手に成長し、勝利という結果が伴うと、周囲の人たちは「あの親は、どのようにしてこの選手をクリエイトしたのか」ということに関心を持つ傾向があるという。よい選手は「創るもの」「創られるもの」と捉えられている、と同教授は指摘する。
 子どもが成功したとき、親は自分自身のことを「よい選手を創ったクリエイター」だと考えるのではないか。それであれば、選手の成功は、「創った人」の成功としても受け止められる。そのような話もした。
 同教授は、こういった背景には現代の「よい親の定義」があるという。親は、子どもの成功や失敗をサポートしなければいけないとされている。よい親であろうとするあまりに、子どもに代わって指導者や審判にクレームをつけることも親の義務だと思い込む。優秀な選手を創ることができるという考えや、子どもの代弁者であろうとする親のふるまいが、過剰な関与を引き起こしていると、同教授は見ている。
 私は「親はどのようにすれば、子どもの成功と、自分とを切り離すことができるのか」と問いかけた。
 コークリー教授の言葉はこのようなものだった。「今の時代ではとても難しいことですが、子どものスポーツ活動について、子ども自身がオーナーシップを持つことです」
 親がスポーツ活動のオーナーになり、子どもは決定権を持たず、プレーだけをさせられる関係になっていないか。子ども自身が、自分の体やスポーツ活動を「自分のもの」だと主張できるように、と同教授は願っている。
 具体的にはどうしたらいいのだろうか。
 「コーチたちが練習時間のなかで子どもたちが自由にプレーする時間を与える必要があります。そうすると、子どもたちは自分たちでルールを考えて作ります、何か新しいゲームや新しい練習方法、そういった何かを考え出します。そうすることで、子どもたちは、これは自分たちのスポーツである、と感じられるようになってくるのです。親も同じことです。子どもがしたい練習に付き合うことはできますが、親が練習内容を決めるのはよくありませんね」と同教授は話す。
 今の子どもたちは、空き地や公園で、自分たちで遊びのルールを考える機会が少ない。大人がある程度までお膳立てしなければ、子どもが自分たちで何かを考え、始められるような環境は少ない。子どもが自分のスポーツであることを実感できるように、逆説的ではあるが、親や指導者は手を貸すということを意識しなければいけないのだろう。
 私の質問は子どものスポーツと親についてだったが、取材の帰り道で中学校や高校の運動部活動の場で、生徒がオーナーシップをとることはできないだろうか、と考えた。教員や外部指導者が采配するほうが、技術や戦術が向上して勝てるようにはなる。しかし、自分たちの活動である、と生徒が感じられるような機会とプロトコルを大人が用意する必要があるのかもしれない。競技成績を表彰するだけでなく、年間最優秀オーナーシップ賞や自主運営賞のようなものを独自に設けてもおもしろいかもしれないと思った。
『体育科教育』2017年8月号p.56より転載

著者プロフィール

谷口 輝世子  (たにぐち きよこ)

スポーツライター

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