「ラグビーの町」埼玉県熊谷市と深谷市(上)

丸くないボールが日本を丸くした。
そう言われた第9回ラグビー・ワールドカップ日本大会。アジア初の楕円球の祭典は全国12会場で開催され,まさに日本代表は「ONE TEAМ」となり,強豪国相手に「奇跡のベスト8」入り。「にわかファン」と言われようがラグビーに興味がなかった人たちも歓喜し,日本中が盛り上がった――。
ラグビーの町を歩く
埼玉県の熊谷市と深谷市の両市は,「ラグビーの町」として知られている。
1年前まで関東ラグビーフットボール協会女子委員会に在籍し,女子ラグビー普及活動に取り組んでいた並木富士子さん(1971年生まれ)は,長年にわたり熊谷市で毎年11月に開催される『ガールズラグビーフェスティバル大会』の実行委員長を務めていた。彼女は言う。
「私は開幕戦の日本対ロシア戦,それにニュージーランドに留学したこともあり,強豪国のニュージーランド戦をスタジアムで観戦しました。日本人観客がニュージーランドの代表ユニフォームを着ている。家族で応援する。もう感動し,涙が出るほどでした」
そして,深谷市の場合は。ともに地元の元公立学校長の松島伸一さん(1952年生まれ)と2歳年下の松島猛さん兄弟は,なんと10年前に私費を投じてラグビー場を開場。県内の中学ラグビー発展に尽力している。兄の伸一さんは語る。
「W杯でこんなにも日本中が盛り上がった。今後はラグビーに興味を持った子どもの受け皿が必要です。私たち兄弟はもちろんのこと日本ラグビーフットボール協会や行政は,指導者の育成やグラウンド整備にも努力して欲しい。それが今後の大きな課題ですね」
傍らで弟の猛さんが大きく頷いた。
ラグビーの町,熊谷市と深谷市のラグビー普及活動を追ってみたい。
熊谷市発
関東ラグビーフットボール協会は,毎年11月に小学生の女子児童が参加できる『ガールズラグビーフェスティバル大会』を県営熊谷ラグビー場で開催している。今年の第13回大会は,熊谷市を拠点にする,立正大学女子ラグビーチームが中心のクラブチーム「アルカス熊谷」のコーチの宮崎善幸さんたちが運営した。
しかし,昨年2018年の第12回までは,並木富士子さんが実行委員長として孤軍奮闘していた。
「そうですね。第1回大会から昨年までは実行委員長でした。でも,現在の仕事が忙しくなったという理由もありますが,去年の第12回大会を終えた時点で,もう1人で運営するのは限界だと思い,辞任することにしたんです。
達成感? 12年間もみなさんのサポートを得て,事故なく運営できたため,やり遂げたという思いはあります。12年前の第1回大会の参加者は100人ほどでしたが,去年は300人を超えましたから。女子ラグビーの普及に少しは貢献できたと思います」
笑みを見せつつ語る並木さんの名刺裏には,次のように書かれていた。
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〈日本体育大学卒業後,港区スポーツセンター職員としてトレーニングマシン指導,リズム体操指導の経験を経て,ニュージーランドへラグビーと福祉の勉強に留学。現在は,介護予防運動指導員として高齢者を対象に健康づくり教室を行っています〉
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小学生時代はミニバスケットボール。中学・高校時代はバスケットボール部に所属していた並木さん。一転して楕円形のボールを初めて手にしたのは,日体大に入学してからだ。
「別に私は,活発な女の子でもなく,運動神経がよかったわけでもないです。ラグビーを始めたのは先輩から『ラグビーをしてみない?』と声を掛けられ,何となく始めた。当時の日体大の女子ラグビー部は同好会で部員は10人ほど。今のように7人制はなく,試合のときはクラブチームの『世田谷レディース』との合同チームで出場する状態でしたね。現在はちゃんとした部活に昇格し,全国女子ラグビーフットボール選手権で7人制と15人制で優勝するほどのチームになっています」
そう語る並木さんが日体大に入学した当時は,「女子はラグビーすべからず」の時代。ほんの一握りのラグビー好きの女性たちが,大学の同好会やクラブチームで楽しんでいたという。
そんな並木さんがラグビーにハマってしまったのは,大学3年の春。1年後の1994年4月,アイルランド開催の女子ラグビーの第2回W杯に出場する日本代表選手に選ばれたからだ。ポジションはフォワードのナンバー8。
「当時の女子ラグビーの競技人口は300人ほど。だから,30人の代表チームの1人に選ばれたわけで大したことはないです。でも,桜のマークが付いた日本代表のジャージを手にしたときは嬉しかったですね。
ただし,『日本のために頑張ろう!』なんては思わなかった。なぜなら当時の女子ラグビーは,日本ラグビーフットボール協会から認められないスポーツで,合宿費や遠征費などはすべて自己負担。学生だった私は,アルバイトをして資金を稼いでいました。でも,やはりW杯に出てよかった。世界の強豪チームと戦い,励みとなったというか私の人生を決めましたからね」
日体大卒業後の並木さんは,先に記したように東京・港区のスポーツセンターに勤務。母校の女子チームを指導しつつ,2002年のW杯に出場した後に現役選手を引退した。
そして,07年から女子ラグビー普及のため,実行委員長として関東ラグビーフットボール協会主催の『ガールズラグビーフェスティバル大会』を運営するようになった。並木さんは語る。
「女子ラグビー普及のためにラグビースクールなどを開催していたんですが,女子の場合は中学や高校にラグビー部はない。そこでラグビーの町として知られる熊谷市で,小学生だけでも参加できるフェスティバル大会を開催したんです。回を重ねるごとに参加者も増え,『中学生の部も設けて欲しい』といった声もありますが,やはりボランティアのスタッフと私だけでの運営は厳しいですね。
私が日本代表時代の選手は,ほとんどが大学に入学してからラグビーを始めた者でしたが,今の日本代表選手は,小学生からやっている。それも日本代表の半数は,ガールズラグビーフェスティバル大会に参加しています。嬉しいですし,普及活動は大事ですね」
介護予防運動指導員の並木さんに手渡された名刺の裏面には,こうも記されていた。
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〈女子ラグビー日本代表選手として,2度のワールドカップ出場を果たし,厳しい世界の中でも,笑顔で前向きにスポーツをしてきました。これからも,笑顔を大切にみなさんと楽しい時間を共有したいと思います。よろしくお願いします。〉

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