「障がい者でもスポーツができる」 ──日本パラリンピックの父と歩んだ半生
岡邦行

赤いユニホーム姿でレース用車いすを疾走させる宇賀治孝一さん(1937年生まれ)は、大分国際車いすマラソン大会の名物ランナーの1人。81年の第1回大会から連続出場を果たしている。
「サンタさーん!」
白い髭のためだろう。出場するたびに沿道の観客から歓声が上がる。
「沿道からの声援は、はっきりと悪口まで聞こえるね。『むげねえなあ(可哀相だなあ)。家で寝ちょればいいのになあ』とか『まだ走っちょる』なんて。まあ、この髭も昔は真っ黒だったが、今は真っ白だから、よく外国人選手に『ユアー・カントリー?』なんて聞かれる。そのたびに『アイ・アム・ジャパニーズ』なんて言ってるけどね」
そう言って苦笑する宇賀治さんは、生まれて2歳4ヵ月を迎えた頃にポリオ(小児まひ)と診断された。
「戦時中の幼い私が歩いてる写真があってね。それを見るたびに『情けないなあ』と思う。当時は車いすなんか無くて、乳母車に乗ってた。初めて自分専用の車いすを買えたのは、23歳のとき、昭和35(1960)年に駄菓子屋を始めたときかな。牛乳1本が15円もしない時代に車いす1台が3万9000円。もう必死で働いたよね」
現在は別府市で青空模型店を営む宇賀治さん。店内にあるレース用の車いすを傍らに続けて語る。
「昔の車いすは重くって20kg以上あったが、このレーサーは半分以下の重さかな。でも、値段だけは上がって、これは25万円もした。改造するとさらに費用がかかるけど、走れるだけで幸せ。まあ、8年前の30回大会までは完走してたが、アキレス腱を切る大けがをしてね。31回大会からは5km地点で棄権する。一応、連続出場記録更新が目標だし、81歳の私は自他ともに認めるスポーツバカなのよ」
1981年の国際障害者年に大分国際車いすマラソン大会はスタートした。提唱者は「日本パラリンピックの父」と称される医師の故・中村裕で、当初は伝統ある地元開催の別府大分毎日マラソン大会に車いす部門を新たに設ける思惑だった。ところが、「マラソンは2本の脚で走るのがルール。車いすではマラソンとは言えない」という理由で断られ、車いすだけの国際マラソン大会を開催することにしたのだ。
もちろん、開催に当たっては「障がい者には過酷だ」「過剰な運動で逆に障がいが重くなる」といった反対意見が相次いだ。しかし、中村裕は怯まずに旧知の整形外科医や理学療法士たちと「マラソン医学研究会」を発足。大会前に出場選手のメディカルチェックをする一方、経験豊かな外国人招待選手を車いすのまま回転速度や角度が調整できるトレッドミルに乗せ、心拍数や酸素代謝などを測定。さらに大会当日は車いすにメモリーボックスを取り付けて選手のストレステストを実施した。
その結果、長時間車いすを走行させても「褥瘡の心配もなく、排尿機能にも異常ナシ」などの医学的データを得て、2年後の第3回大会からはハーフマラソンだけでなく、フルマラソン部門も設けたのだ。
医師・中村裕との思い出を、宇賀治さんは振り返った。
「昭和40年だから53年前だね。当時の中村先生は、社会福祉法人の太陽の家を創設しながらも国立別府病院に勤務していた。私はそこで手術したんだが、怖い先生でね。『どうして早く手術をしなかったんだ』と怒られて、手術後は『リハビリにはスポーツが最適だ。挑戦しろ!』と言われた。
あの当時の国立別府病院は、神奈川県の国立箱根療養所と一緒に "医学スポーツ研究会" というのをやっていて、私は車いすで5000mを走った。『これはマラソンだから頑張れ!』なんて言われ、車いすにメモリーボックスを付けさせられてね。まあ、言ってみれば人体実験のモルモット役ですよ。当時の車いすはかなり重かったため、障がい者にはきつく、1回で終わったけどね。でも、車いすで公道を走るんだから気分は最高だった」
その後の宇賀治さんは、県内で開催される障がい者のスポーツ大会に進んで出場した。アジアパラリンピック競技大会の前身となる、大分フェスピック(75年)では100m競技で金メダル獲得。全国身体障害者スポーツ大会でも多くのメダルを獲っている。
「当時は別府市が開催するロードレース大会があって、昭和で言えば、52年と53年だね。車いす部門もあって、生活用車いすで3kmほど走れたんだが、1人に2人の付き添いのスタッフが必要なため、2回で中止になった。私ら障がい者にとっては『開催してくれ!』の思いで残念だったけど、4年後に大分国際車いすマラソン大会がスタートした。もう嬉しかったね」
車いすマラソンに出場したときの思い出の写真が収まっているアルバムを広げ、宇賀治さんは続けて言った。
「第1回大会のときは、中村先生に『お前、絶対に出ろよ!』と命令されて『はい、出ます』と。拒否したら怒られるからね。20km以上の距離を走るのは初めてだったため、家の周りを走ってトレーニングをした。当時は、車いすの場合は車道を走らなければならず、怖かったよね。
まあ、第1回大会の思い出はいっぱいある。脊髄損傷者の選手は、車いすのシートに穴を開けてね。ションベンを垂れ流してた。だから、後ろにつくとションベンがひっかかる。もう大変なのよ。前に入り込んで妨害行為をする選手もいたし、私は肩幅があるために逆に後ろについて風よけにする選手もいた。外国人選手は『こいつ、風よけにならん』という感じで煽って追い越していく。人間、いろいろだね」
障がい者でもスポーツができる──。
そう宇賀治さんが強く思ったのは、54年前の東京パラリンピックをテレビで観たときだ。当時の日本の障がい者の多くは、病院や施設に隔離されるような生活を強いられていたが、とくに自立している欧米の選手は明るく、とにかくスポーツを楽しんでいた。
「もうひと言で驚いた。外国人選手は、笑顔でスポーツを楽しんでいたしね。あれを見て『俺もスポーツがしたい』と思った。そこでさっき言ったように、整形外科医の中村先生が勤務する国立別府病院に行ったわけ。中村先生は、東京パラリンピックの日本選手団団長だったし、関節が固まっている私の身体を治してくれるんじゃないかと、そう考えてね。
まあ、手術は4時間以上かかったけど、手術後は中村先生の『リハビリにはスポーツが最適だ。挑戦しろ!』の指示通り、松葉杖を使って国立別府病院のグラウンドを歩いた。1日に3周、4周とね。手を抜いたら中村先生に『言うことを聞かんと治りゃあせんぞ』と怒られるしね。もう必死でしたよ」
宇賀治さんは、そう言って白い髭を撫でた。ちなみに「日本パラリンピックの父」の中村裕は、84年に57歳で亡くなった。大の髭嫌いで会うたびに「お前、早く髭を剃れ」と言われたという。
今年で第38回目を迎える大分国際車いすマラソン大会は、11月18日に開催される。大分県庁前のスタートは午前10時。すでに宇賀治さんは、エントリーを済ませた。
著者プロフィール
岡 邦行 (おか くにゆき)
ルポライター
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