名字・名前と漢字
第7回 日本に多い名字とは?(2)
笹原宏之

世界の名字・名前事情を踏まえ、名字と名前に使われる漢字のおもしろさに迫っていく本連載。第7回では日本の名字ランキングを作った男、惣郷正明(そうごうまさあき)の調査から、日本の名字事情を探る。
名字ランキングを作った男
明治初めに法律によって国民皆姓が実施されたものの、国家による日本の姓名に関する悉皆的、科学的な調査は全く行われない状態が続いた。地名に関しては、小字(こあざ)の類いに至るまで、振り仮名付きで書き上げさせ、政府に提出させたのだが、姓名の方は各自治体での戸籍簿への登録で終わっていたのである。
そうした状況の中、独力で手作業によって調査研究を実施するに至ったのが惣郷正明であった。英学や辞書の歴史の研究で名を残す、1912年生まれの研究者である。
彼は、「姓に現はれた民族の生活環境」と題し、『学士会月報』627、630、632号に続けて成果を発表した。1940(昭和15)年のことである。
もちろん、個人の力では、すでに数千万人を擁した日本人の名字の全数調査など、できるはずがない。そこでサンプルとして、学士会員名簿が選ばれた。惣郷自身も九州帝国大学法文学部を卒業しており、親しみの持てる全国規模の名簿だったのだろう。昭和13年用「学士会員氏名録」には「四万四千余名」が登録されていたといい、外地及び外国籍を除いて「四万九百十八名」が対象となった。
日本初の名字調査
それでは、彼が調べ上げた成果をみてみよう。
漢字では、「田」「山」「藤」の各字が1500回以上使用されていることを明らかにした。ただし、一字目と末尾以外での使用、例えば三字姓などの中間での使用は数えていない可能性がある。名字は、出身地の村、大字(おおあざ)、小字名と一致することがあると指摘する。
そして、難読のものもあるが、「読み方は差し措き」、「内地姓」は「四十万内外」と種類を推定した。奇姓珍姓もあること、さらにまた、命名心理、命名嗜好にも触れている。
集計する中で、地方的な分布も見出すことになった。「伊藤、加藤は尾張に多く」、尾張の俗諺に「伊藤、加藤は犬の糞」というと述べている。犬の糞は、かつては道端によく放置されていて、普通に見られる光景だった。私も昭和40年代の都区部で、目にしていた記憶がある。袋を持ち歩くマナーの定着はむしろ新しく、「佐藤、斎藤」「甲斐、黒木」など、名字を入れ替えた同型のことわざが各地に伝わっている。
さらに、「鈴木」は関東に、「大西」は瀬戸内海沿岸に、「屋」を語尾に有する名字は山陽地方に多いなど、地域による偏りの事実が細かく明らかにされている。
明らかになったランキング
注目されるのは、学士会員名簿に基づいて、日本人の名字のランキングが初めて割り出されたことである。
順位 | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 10 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
名字 | 鈴木 | 田中 | 佐藤 | 中村 | 渡邊 | 高橋 | 齋藤 | 伊藤 | 山本 | 吉田 |
1位の鈴木は437人おり、1.06%(小数点第3位以下は切り捨てられている)を占めている。次いで、田中が423人、佐藤が396人と続く。
4位に中村がきているが、これは伊藤とあるはずだったもののミスプリントだった、と惣郷自身が後に、日本語学者の柴田武に書簡で伝えたという。当時は計算をするにも電卓などなく、筆算、そろばん程度であったのだろう。また、8位に伊藤とあるが、これも同様に中村とくるはずだったもののミスプリントだったとの告白を手紙で受けたことを、これも柴田が戦後の論考(後述)で記述している。さらに山田も4位だったと柴田は記しているので、上位3位より下は、あまり当てにならないことがうかがえ、せっかくの労作が惜しまれる。この真相は、当時の名簿を根気よく検算してみれば分かることだろう。
異体字、異表記を分けて処理したのかどうかは判然としないが、ともあれ、大姓、つまりは数の多い名字の傾向を明らかにした功績は大きい。惣郷はさらに、それらの名字を、東日本型と西日本型とに大別して、
・鈴木…関東、中部両地方に勝れて多く、東日本に84%(西日本に残り16%)
・田中…近畿以西に多く、西日本に59%
・佐藤…東北地方に多く、東日本に75%
・齋藤…東日本に83%
などと計上し、「語尾で音読する藤」は東日本型であるなど、近年では周知となった事実をこの時点で喝破している。
ただ、この時、佐藤姓が東北に多いことを指摘しているが、東北勢はなおも旧帝国大学への進学率が高くなかったことを標本の偏りとして加味する必要がなかったのだろうか。東北帝国大学の設置は、東京帝国大学、京都帝国大学より遅れて1907(明治40)年のことであった。
特定地域の名字調査
惣郷の調査は、こうした鳥瞰的な観点にとどまっていなかった。さらに、昭和10年12月現在の「衆議院議員選挙有権者名簿」により、広島県豊田郡、加茂郡の33町村に属する16668名を対象に全数調査を行った。こういう資料を固有名詞の調査研究に利用できる、よき時代であった。こういうものが「個人情報」だとしても、こうした調査によって損なわれたことが何か一つでもあっただろうか。
そこは転入が少ない地域とのことで、「山本」が29町村にみられ、人口も多いが、それでも0.85%に過ぎないこと、「高橋」「岡田」「渡邊」「兒玉」のほか「隠居」という名字などもあることを記す。名字の種類が多様性に満ち、重なりにくい傾向が読み取れよう。
名字はその「姓の発祥したと見られる同名の地点に最も多」い一方で、「逆の分布層を示してゐるものもある」とし、その歴史や分布に関しては一様に把握できないことが示されている。
具体例を挙げると、「乃美」は、乃美村出身であることを示すため、地名を姓に転化させたものとみる。「谷」を用いた名字が渓谷地帯に希少である一方で、「住居地の実際地形がそのまま姓に」なることがあるともする。また、興味深いところでは、「野の字を含む姓の分布の多い町村では反対に原の字を含む姓が少」ないこと、「森」は散在していることも指摘している。
国内では、このように、名字という多くの人から関心が寄せられ、かつ種々の情報の詰まった固有名詞に対して、民間人による努力が戦中から始まっていたのである。
その頃、政府は植民地においては名字の全数調査を行っていた。朝鮮総督府では、半島の住民に対して名字の種類とそれぞれの人口などに関する悉皆調査を初めて実施し、結果もまとめ、書籍の形で報告、公刊している。
これに続いて戦後、日本人の姓名に対する調査は、どのように進展してきたのだろうか。意外な人物たちがこの難題に果敢にも挑戦していく。次回以降、明らかにしていきたい。
著者プロフィール
笹原 宏之(ささはら ひろゆき)
1965年東京都生まれ。 早稲田大学第一文学部で中国語学を専攻、同大学院では日本語学を専攻。博士(文学)。早稲田大学社会科学総合学術院教授。 経済産業省の「JIS漢字」や法務省法制審議会の「人名用漢字」の改正、文部科学省文化審議会の「常用漢字」の改定などにも携わる。 著書に『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂、金田一京助博士記念賞)、『訓読みのはなし』(角川ソフィア文庫)、『方言漢字』(角川選書)、『漢字に託した「日本の心」』(NHK出版新書)、『漢字の歴史 古くて新しい文字の話』(ちくまプリマー新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)など。
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