国語教育

詩の教室へようこそ
第9回 自分だけの灯りの下に
和合亮一

◆詩集との出会い

 今回は、詩集との出会いと楽しみ方について思い浮かぶことを、お話しさせていただきたいと思います。

 その出会いとは、私にとっては決して自発的なものではありませんでした。大学時代に国語系のサークルが開催する自主ゼミに興味本位で参加したことがきっかけでした(これだけその後の人生においてのめり込んで生きている私でさえそうなのですから、やはり外側からの働きかけはとても重要なのだと、いつも思っています)。

 ゼミでは近代詩人や現代詩人の詩集を幅広く取り上げていました。

 

汚れつちまつた悲しみに

今日も小雪の降りかかる

汚れつちまつた悲しみに

今日も風さへ吹きすぎる

(中原中也『山羊の歌』より)

 

 「悲しみ」という感情が汚れるとは一体、どういうことなのだろう…。

 考えるほどに、わからなくなるような気がしました。感情そのものを、こんなふうに特別にとらえていいんだという驚きと面白味が初読でとても強く湧きあがってきました。

 この感覚はずっと残っています。例えば東日本大震災直後、余震のさなかに呆然となりながら、「詩の礫」と称して、twitter(現「X」)に私はこんなふうに呟いております。「涙が泣いてる。涙も泣くんだね。」「泣いている。涙が、泣いている。」「涙だって、泣けばいい。涙だって、泣いていいんだよ。」(2011年3月20日)。これはこの詩に強く影響を受けています。このフレーズを作曲家の新実徳英さんが、合唱組曲「つぶてソング」の中の一つのパートに加えてくださり、たくさんの方にいろんな場で歌われて、ありがたく思っています。

 

 ゼミに参加するために初めて文庫本の詩集を買ったわけでしたが、何度も読み直しているうちに、繰り返し読まずにはいられないような感じになってきました。

 あたかも、この詩にあるように「小雪」のような何かが降り積もり、それがまた別の何かを呼んでいるかのような感覚が残りました。詩集を開くたびに、何回も読み直しているはずなのに、新しい作品を読んでいるかのような、不思議な感覚にとらわれました。

 

◆言葉の背後の何かと向き合って

 中原中也には「朝の歌」「頑是ない歌」「言葉なき歌」など、題名に「歌」が入った詩が多数あります。

 そもそも、2冊の代表的な詩集の題名は、『山羊の歌』『在りし日の歌』であり、正に「歌」が根本のモチーフであることがこのことからも察せられますが、それぞれの詩を繰り返し聞きたくなるような…、読みたくなるような感覚を覚えます。

 詩集の楽しみ方の一つとして、何度も読み返す、ということがあります。どうしてそれができるのでしょうか。私は言葉の凝縮によるイメージの喚起力がそこにあるからだと思います。

 

 読み返す、それは対決することの連続である…、といったほうが良いのかもしれません。詩の持つ言葉の凝縮度と向き合うということは、凝縮されている背後の何かと向き合うことに等しいと思います。

 言葉の後にある何かとその言葉を真ん中にして対峙する時間を持つことだとも感じています。

 何でも安易にわかりやすさが求められることが多く、読みやすさばかりが求められることが多い現代において、読むということについてそればかりではない…、つまりは激しく向き合うものであることを、詩集を通して感じてほしいと願っています。それには、詩を通した読書体験の機会を与えて、感想を語り合うことが始まりになります。

 私は現在、授業で「国語表現」と「文学国語」を担当しております。時折に時間を見つけて詩を朗読し、生徒たちと語り合う時間を持ちます。生徒たちには、情熱を持って詩と向き合っている教師の姿勢を見せるほどに気持ちが伝わっていくようであり、まなざしが生き生きとしてくる様子がわかります。

 

冬よ

僕に来い、僕に来い

僕は冬の力、冬は僕の餌食だ

しみ透れ、つきぬけ

火事を出せ、雪で埋めろ

刃物のやうな冬が来た

(高村光太郎の『道程』より)

 

 高村光太郎の詩からは正しく、何かとの対峙の姿勢が強く感じられます。

 厳しい冬という季節だったり、山の景観や牛という動物だったり、厳格な父だったり…、その相手は様々ですが、対象と向き合うことで緊張をみなぎらせて、そこから何がしかの生きる力を得ようとするかのような特別な時間を、筆に宿していたことが多くの作品から特徴的に感じられます。

 「詩は言葉の彫刻」と光太郎は生前に話していたそうです。対象物と向き合うようにして彫り込んでいく、詩人にして彫刻家の光太郎ならではの言であると思われますが、書き上げたものに手を入れる際の推敲については彫刻刀ならぬ筆の先で、執拗に削ることを繰り返したのではないかと、読みながらいつも勝手に想像しています。刻まれた言葉が肉迫してくるような印象があります。

 

◆熱く、静かに読書する

 高村光太郎と中原中也は共に近代を代表する詩人で、光太郎は長命で中也は早逝でした。日本を代表する彫刻家である高村光雲の息子として生まれた光太郎は、彫刻で食べていく道を選ばずに、地元山口の湯田の開業医の家に生まれた中也は医学の道を選ばずに、どちらも波乱とも言える人生を送りました…。こんなふうにそれぞれの詩や生き方を比べながら、第一印象を生徒と語り合うのはいかがでしょうか。

 

ぬれた渚路には、

腰から下のない病人の列があるいてゐる、

ふらりふらりと歩いてゐる。

ああ、それら人間の髪の毛にも、

春の夜のかすみいちめんにふかくかけ、

よせくる、よせくる、

このしろき浪の列はさざなみです。

(萩原朔太郎『月に吠える』より)

 

 これは萩原朔太郎の「疾患詩篇」とも呼ばれる一連の作品の一つです。私がこの詩に出会った時こそ、正に対決の始まりでした。

 何度読み返しても不思議で奇妙な感触が残ります。得体の知れない、恐怖や不安が読むほどに湧いてくる感じがあります。朔太郎もまた、地元前橋の開業医の家の息子として生まれましたが、詩人の道を選び、不安定な暮らしに苦しみました。病気がちでもありました。悩み多き人生を歩みましたが、口語自由詩の道を切り開いたとされる金字塔の『月に吠える』、そして『青猫』の詩集を読み返すうちに、ある不思議な健康さを私は感じました。

 これだけ奇妙な創作世界=自己の内面と向き合うことのできる、はっきりとした意志と気力を見せられている思いがしたのです。彼の詩に満ちている内面との対峙への意志力と新しい世界へと進んだ開拓精神を感じ、貪るように読み耽り、やがて言葉が溜まるような思いが心の中に残り、詩を書き始めるようになりました。

 詩人が対決しているものと読み手も対決する。

 熱く、あるいは、静かに。そうした読書があることを詩を通して知ってほしい…、授業をしながら、時折にそのような願いを持って話しかけています。

 福島の先輩詩人の長田弘さんの、あるエッセイのこのフレーズが好きです。

「灯りについて、ふりかえっていつもまっさきに思いだすのは、じぶんが最初に手に入れた、首の曲がる、じぶんだけの電気スタンドのことです。じぶんだけの灯りを手に入れて、そのときわたしが手に入れたのは、読むべき言葉です」。

 生徒たちのある日の灯りの下に詩集があることを。

 

『国語教室』第122号より転載

プロフィール

和合亮一(わごう りょういち)

福島県立福島北高等学校教諭。第一詩集にて、中原中也賞、第四詩集にて晩翠賞受賞。2011年の東日本大震災で被災した際、twitter(現「X」)で「詩の礫」を発表し話題に。詩集となり、フランスにて詩集賞受賞(日本人初)。2019年、詩集『QQQ』で萩原朔太郎賞受賞。校歌、合唱曲作詞多数。

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