ことば・日本語

名字・名前と漢字
最終回 日本の名字と名前
笹原宏之

世界の名字・名前事情を踏まえ、名字と名前に使われる漢字のおもしろさに迫っていく本連載も、今回で最終回。これまで調査の歩みをたどってきた、日本の名字に加え、名前に関する昨今の状況を概観する。

 ここまで、名字の客観的なランキングを作るために、先人たちがどのように刻苦精励してきたかを追いかけてきた。その全体像の見えない中での果敢な営為は、国の無策を浮き彫りにするとともに、日本の名字の多様性の一端を示すことになった。

 最終回である今回は、日本における名字や名前にまつわるその他の事象や問題について、種々の調査を踏まえつつ、一言ずつ触れることとしたい。

名字の種類

 日本の名字は、世界でも珍しいほど種類が多い。丹羽基二は、さまざまな著書の中で30万種を超えていると述べており、大冊『日本苗字大辞典』では29万余種を列挙している。珍しい名字と思われているものの中には、実は本名ではない芸名の類いや、誤認により生じた幽霊名字(森岡浩氏の命名)も存在しているのだが、それらを差し引いたとしても確かに多い。しかも芸名を本名に登録し直すケースさえある(かつて女優の水の江瀧子は芸名だった「水の江」を本名とした)。帰化する際に、新たな名字を作り出すケースも生じている(タレントのクロード・チアリの名字「智有(ちあり)」や、サッカー選手の「三都主(さんとす)」がその例)。

 何事にも多様性が生じるお国柄であるが、名字を名乗ることを義務づけた、明治初期の平民苗字必称義務令の頃にどうしてその名字が登録されたのかが、ほとんどの家庭で伝承されていないというのも日本の現実である。そこには、住んでいる土地の名付け自体の自由さがまずあり、それが名字に転用されることも多かった。さらには、士族や家族などの制度からの影響のほか、漢字に訓読みがあり、熟字訓という方法さえも古くから多用されたこと、方言のように言語事象の地域差が激しいことにも関わりがある。

 日本では、学校で40人学級の名簿を見ると、40通りの名字が並んでいることが珍しくない。中国ならば、教室に3人ほどの王(ワン)さんが座っている(地域によってはもっと多い)。韓国ならば9人ほどの金(キム)さんが、ベトナムならば16人ほどの阮(グエン)さんがいる。それらの国々では、そもそも同姓が多いために、名字で個人を区別して呼ぶようなことは最初から放棄されている(フルネームにしても、クラスに同姓同名が3人もいて混乱したなどという報道が中国であった)。

 わたしはナカジマです、と自己紹介のときに名乗る。「中島」か「中嶋」か「中嶌」か漢字表記は確定しない。「嶋」でも、列火(灬)を「一」のように1画で書くのが戸籍にある正式な字体だという方もいる。日本の名字は、何を一つと数えるか、単位が定めにくい。漢字や日本語そのもののもつ問題とも重なる面があるが、字体や読みの認定に揺れがあるのだ。

 逆に「中島」と漢字で書かれた名刺を見ても、発音は「ナカジマ」か「ナカシマ」かは分からない。後者には、東西で地域による分布の差があるのだが、例外もある。そういうこだわりをもった人たちが集まっても、中国を訪れて旅行すれば、全部簡体字で「中」となって、発音も zhong1dao3 (ジョンダオ)のように中国語の読みで揃えられてしまう。漢字に関する日本のおおらかな多様化の傾向と、漢字にも適用されてきた中国の厳格な一元化の原則に気づくことであろう。

希少な名字

 個々に名簿などを見ていけば、驚くような名字に逢着する。「十」の「|」を「亅」とはねた「モギキ」姓は、意外にも中世文書にまで起源を遡る。「橘」「冷泉」「金持」「牛腸」「毒島」「結城」「如月」「早乙女」「伊集院」「綾小路」などは、単なる記号では済まない雰囲気をかもし出している、と感じる向きもある。「村主(すぐり)」「藤原」など古代の氏姓(うじかばね)からの伝統を感じさせるものもある。同姓結婚に抵抗感はなく、さらには名字に憧れて結婚を決める女性までいるそうで、名字が人生を左右することさえもある。

 「吉田」「田」[1]には、異体字によって一族の出自(武士か農家か)を分けるという、中国ではありえなかった漢字の運用を支える意識も見受けられる。「斎藤」「斉藤」などは、異体字によって本家・分家を分ける家もある。そして「斎藤」と書いて「ナカジマ」と読ませるようなケースさえあるという。実は手続き上、誰でもこのような読み替えは公的に可能となっている。こういうことも、日本の住民票制度や文字のもつ実情であり、漢字中心主義をここにも見出すことができよう。

 「月見里」「小鳥遊」は、クイズのような読ませ方をするものとして一部で有名になり、ライトノベルや漫画の登場人物の名字に安易ではと思われるほど重宝されている。それぞれ「ヤマナシ」「タカナシ」と読ませるのだが、これらは明治の新姓ではなく、やはり中世にすでに誕生していた。「服部」「長谷」「東海林」などは日本人なら慣れていたり知っていたりするから読めるのであって、その延長線上には常識を超えたものがいくらもある。しかも、当事者にとってはたいてい至って自然なものなのである。南は沖縄(琉球)の名字、北は北海道のアイヌの方々の名字にも、地域色の濃いものが見られる。

 「素麺」「豆腐」という名字は、家庭裁判所の改姓の審判記録で見かけた(その結果には、また奇怪なものが見られた)。「髭」をわざわざ「鼻毛」に改姓した一家もあった。

 「田(た)」のように、たったの1音節の名字の人も、とくに西日本に見られる。それは方言の実情が関わってのことである。一方、漢字5字の名字も実在している。その方は、手持ちの印鑑を見せてくれたが、2行にまたがる大きく立派なものであった。過去には、漢字7字で「上沼田下沼田沼田」という名字まであったとの記載が戦前の資料にはある。それを追跡していくと、意外な文書に突き当たったこともある。

珍しい名前

 日本では人の名前は、漢字が伝わる前、先史時代からあった。邪馬台国の「卑弥呼」はその一つの現れであるし、奈良時代の戸籍帳に記された奴婢の名前には、後から当てられたような漢字表記が並んでいる。

 珍名は、近年になって突如として現れたわけではなく、それなりの歴史がある。そもそも何を持って珍しいとするかは、慣れの問題もあって一筋縄にはいかない。古代の「赤人」「比羅夫」(奈良時代の発音なら「ピラプ」)もよく考えれば、おかしな名前と思えてくるだろう。「くそ」のような排泄物を命名に用いることさえあったが、そうすることで子を病魔から逃れさせようとする信仰による幼名であった。見過ごしがちであるが、「悪源太」のように、字義や語義に変遷があったことも忘れてはならない。中世には、「五六八」という名の姫(「いろは」と読ませる)、「マリア」という名の女性も現れている。

 長い名前は関心を呼ぶようで、この話題になるとたいてい話の最後には落語の「寿限無」に意識がいってしまう。実際に、現在でも漢字を9字、10字と連ねた人たちはいる。実は、この字数には制限がなく、かつて、30字ほど漢字を並べた出生届も提出されたことがあったそうだ。そして、戦前には、「いろはにほへと」から「ゑひもせす」まで並べた女性の名前さえあったと記録されている。

 親の1字を子に与えるケースのほかに、一族で代々、同じ1字を継承する家がある。これは、中国や韓国の伝統からすると、通常ありえないことだった。むしろ中韓では、日常でも親の名前の漢字は皇帝の名と同様に使用が避けられて、むしろ同世代が共有する1字が親の名前とはバッティングしない形で定められたのである。家を継ぐという制度は共通であっても、そもそも家業まで継ぐかどうか、親を超えようと一般に考えるかどうか、といった社会的風土や精神構造にも違いがある。韓国では五行相克に従って部首を変えて名付けを行う風習が、なおも族譜や戸籍上では見られる。

名前の流行

 名前には流行がある。男性の「…お」に「夫」と書くのは、長谷川一夫など、明治以降に現れたもののようだ。「昭」は、昭和になってからしばらくの間、はやった字であり、年齢を当てることができる場合がある。女性では、「子」が付く名前が1940年頃の新生児のうち80%以上に付けられていたのだが、今では1%程度にまで激減している。「亀」の字は、すっかり人気を失った。人気の名前はランキングが発表されて話題となるのだが、これも名字と同様に、日本では民間会社が奇特にも細々と集計した結果なのである。

今どきの名前

 ニュースなどから、女子なら「陽菜」「葵」、男子なら「大翔」「蓮」あたりが今、人気なのかと、大まかな傾向は分かる。しかし、名前の調査では、サンプルの少なさによって、別々の名前が同数となってしまうことがしばしば起こる。複数の名が1位として示されたり、同類の他のランキングと順位や掲げられた名前に齟齬を呈したり、といった状況が容易に現れてしまう。しかも、発表時期のタイミングもあって、12月生まれが入ることがなく、季節による偏りが生じることも見逃されがちである。

 2014年にも、「椛」という字が女子の名前で最も人気が出た、というようにも読める記事がネット上で先行して発表されたが、続けて公開された明治安田生命のランキングでは、「椛」は100位にも入っていないというおかしな現象も起きた。いずれもこういう情報を数えて公表するだけ立派であり、あるだけでないよりも絶対にありがたいデータとなるのだが、所詮はサンプリング調査に過ぎず、国が統計を発表しない以上、客観的な観察と記述に努めることが必要である。

 全国紙は販売区域における赤ちゃん誕生の記録を載せなくなってきたが、地方紙ではお悔やみとともに重要な情報として、日々紙面を飾っている。役所から新聞社にデータが送られるところまであると聞く。ある地方紙から切り抜きを送ってくださる方がいて、それをお悔やみ欄の名前と比べながら観察し続けているのだが、確かに現在の赤ちゃんたちの名前は、大きく変わってきている。

 「翔」など、筆者が生まれた時代には人名用漢字に入っておらず、当然この漢字を用いた名前は皆無だった。今では、大学にも、この漢字を使った名前の男子が増えてきている。「翔」を使った名前の男性は、イケメンという印象があるとも学生たちはしばしば言うのだが、それは字や発音の印象に加え、親の志向、子の意識や行動、周りの期待や受け止め方、そして何よりも40代では本名とするものが原則としていない(名付けられなかった)という現実によるところが大きそうだ。こうした名前のイメージの変化は実は激しく、今は当たり前の名前も、昭和の発言を振り返ると、水商売のようだと非難されているケースがいくつも見つかる。今どきの若者論、ことばの乱れ論と軌を一にする面があり、即断は要注意である。

 いつの時代にも、相対的に珍しい名前はあった。見かけない名前、読めない名前も存在していた。個人を識別しやすい名前は、むしろ好ましいと考えられる。ただ、それが近年、量(比率)の面だけでなく、質の面でも変わってきていることは確かなようだ。

名付けの現在

 姓名判断と呼ばれる画数占いは、今や全盛である。運勢が良くなるようにと、リストに合わせて字画を調節するために「汰」「憂」などを字義を考慮せずに選んで使うことの一因ともなってしまっている。付けたい名前が制約されたり、改変されたりするところにまで及んでいるのだ。画数をもとに、名前によって付き合う人との相性を知るという人さえもいる。

 しかし、中国3000年といった、日本人の中国イメージを借りつつ漢字の神秘性と一体化させたキャッチフレーズとは裏腹に、画数を見る姓名判断の来歴は実はかなり新しい。この事実はほとんど知られていない。いつの世でも子の幸せを親は願うもので、江戸時代には、『韻鏡』に基づいて漢字の発音を考える、全く別の占いがはやっていた(中世にはまたそれとは違う占いが行われていた)。それが廃れ、昭和に入って、熊崎健翁という占い師が、明治期に萌芽した占いを整理して女性雑誌に連載したのが、画数占いのスタートであり、分かりやすさも手伝って世間に広まったのである。

 だが、画数と吉凶の関連付けは根拠が明確でない。数字を用いるだけに統計だという話もあるが、それが事実だとしても調査時期も、サンプルの母集団や金運、結婚運などの調査方法も明らかにされたことは一度もない。そもそも「流派」が複数に分岐してしまっており、1画で運命が変わるとしながらも、「くさかんむり」などは画数の数え方自体が本によっては3通りにまで分かれてしまっている。

 2003年、戸籍法のいう「常用平易な字」である「曽」が入っていないような人名用漢字別表(法務省令)は、「違法」「無効」だとの決定が最高裁で下された。それを受けて、翌2004年には、人名用漢字に「苺」「蜜柑」「(林)檎」「葡萄」などが一挙に追加された。この当時、法務省の法制審議会で親の要望に関する調査を担当して分かったのだが、「腥」「曖」といった漢字を字源や字義に俗解を加え、イメージを先行させたりして名前に使おうとする趨勢がある。あやかりも、アニメ映画の登場人物と同じ「雫」を子に付けたいというように、かつての古人に対するものとは違ってきている。すでに漢籍・漢文離れはあらゆる面で顕著である。また、パソコンやケータイで変換して画面に出てきた「凛」がかっこいいので、辞書が正字とする「凜」よりもこれを使いたい、といった新しい展開も現れており、見逃せない現代の動向といえる。

 名前の「ララ」という読みには、「星」などさまざまな漢字が当てられており、役所でも受理するかどうか判断が分かれている。「ドキュンネーム」や「キラキラネーム」といった評価を伴うようなグループ化も、個々の内実は一定しないものの世に行われている。戸籍には振り仮名欄がなく、事実上漢字さえ制限字種を守っておけば読みは何でもあり、という制度が生みだした状況である。そこには、個人の直感に基づく恣意性の高いものではないか、と疑うしかないものも交じっている。「徳」を漢籍での使用に基づいた字義によって「のり」と読ませたような従来の名乗字とは、背景を異にしていることは明らかであるが、線引きは難しい面がある。

 2014年には、高裁判決を経て、近々人名用漢字に「巫」が追加されるという事案が報道を通じて話題となった(2015年1月7日に正式に追加された)。この字そのものの印象を尋ねてみると、神社のみこさんが浮かんでかわいい、あるいは呪術師、祈祷師のような映像が浮かんでおぞましい、と大きく二分されてしまっている。

 先に触れた改姓と同様に、改名もまた、「珍奇」といった厳しい条件や判例との合致が裁判官に認められない限り、行うことができない。親の考えを、自身のペンネームなどではなく、幼い子供の名前で体現させようとすること自体の可否も問われよう。かつての幼名ならばともかく、その子がやがては大人となるという事実も想像しなくて構わないのかと心配になるものもあるようだ。近年の名前のこうした劇的な変化には、社会的な属性との関連性も指摘されるところであり、実際に気になる現象がいくつか見出せる。

 このように日本の名字や名前は、世界でも随一の多様性がある一方で、顕在化しているか否かにかかわらず課題も山積している。他国には見られない日本独自の問題が、漢字・仮名といった文字の多彩さ、運用法の多様さと関わりつつ拡張しているのである。この連載で触れてきたことを軸に、できるだけ早いうちに書籍においてそれぞれ正面から取りあげてみたい。

《注》
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  • [1] 2つめの「吉」は【土×口】(上が「土」で下が「口」)。

 

著者プロフィール

笹原 宏之(ささはら ひろゆき)

1965年東京都生まれ。  早稲田大学第一文学部で中国語学を専攻、同大学院では日本語学を専攻。博士(文学)。早稲田大学社会科学総合学術院教授。  経済産業省の「JIS漢字」や法務省法制審議会の「人名用漢字」の改正、文部科学省文化審議会の「常用漢字」の改定などにも携わる。  著書に『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』(三省堂、金田一京助博士記念賞)、『訓読みのはなし』(角川ソフィア文庫)、『方言漢字』(角川選書)、『漢字に託した「日本の心」』(NHK出版新書)、『漢字の歴史 古くて新しい文字の話』(ちくまプリマー新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)など。

 

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