探偵小説の風景を探して
江戸川乱歩の東京
小松史生子

江戸川乱歩の作品が生まれ、多くの読者を獲得し始めた1920~30年代は、関東大震災後、急速に東京がモダン都市として成長していった時期だ。
昭和100年を迎える2025年の現代、時々刻々と変貌する東京は、100年前の昭和モダニズム都市を描いた乱歩作品の風景とどれほど変わっているだろうか? それとも変わらない何ものかが息づいているだろうか?
そんな問いを抱きながら、いざ一緒に歩いてみよう。
名探偵はどこに住んでいる?
江戸川乱歩が生み出した不朽の名探偵といえば、明智小五郎である。しかし、明智小五郎は実はそのアイデンティティがはっきりしない、身元不明の人物でもある。彼が登場する第一作『D坂の殺人事件』(1925)では、「どういう経歴の男で、何によって衣食し、何を目的にこの人生を送っているのか、というようなことは一切分らぬ」とあって、現代の感覚からするとかなり怪しい。
そんな怪しいデビュー当時の明智小五郎は、D坂付近のタバコ屋の2階に下宿していたとある。「菊人形の名所だった」D坂とは、団子坂のこと。今の文京区千駄木2丁目と3丁目境を東へ下る坂で、南方面に東京帝国大学があったことから学生向けの安い下宿が多い界隈でもあった。書生っぽかったと言われるデビュー当時の明智の風采に、まことつきづきしいエリアの住まいである。しかし、やがて探偵としての認知度が上がっていくにつれ、明智小五郎の住まいも徐々にグレードアップしていくのだから面白い。
『D坂~』事件の数年後、『一寸法師』(1926)の事件では、赤坂の菊水旅館に滞在している。現在の赤坂も賑やかだが当時も花街を控えた繁華街で、且つ中流名士が住宅を構える土地柄でもあり、団子坂界隈と比べるとステイタスの差は明らかだ。服装も「自慢の支那服を着て、あいの中折をかぶった」お洒落ないでたちで、「数年以前にくらべると、このごろではいくらか見え坊になっていた」と語られていて、明智の経済事情がうかがえる。
続く『蜘蛛男』(1929)で上海から印度を廻って久々に帰国した明智は、『魔術師』(1930)でお茶の水の開化アパートに居を移す。この開化アパートは実在したお茶の水文化アパートメント(1925年創建)がモデルで、当時としては珍しい純洋風生活を目指した単身者向けの住宅であったから、素人探偵として知名人となった明智にふさわしいセレブリティな住まいだ。『D坂~』の頃と比較して隔世の感がある。そして、『吸血鬼』(1930)で結婚したのを機に、ついに麻布区龍土町(現港区六本木7丁目界隈)に一軒家を構え「明智探偵事務所」を開く。赤坂以上の高級住宅地での開業だ。
団子坂からスタートし、麻布の一等地の白い西洋館に至る明智小五郎の住宅変遷は、当時の東京で暮らす都会人の憧れのステイタスを示す動向でもある。
二十面相はどこに住んでいる?
明智小五郎の最大のライバルといえば、いうまでもなく怪人二十面相である。彼のアジトは、東京のどこにあったろうか?
初登場する『怪人二十面相』(1936)では、まず戸山ヶ原の外れの杉林の中にひっそりと建つ古い洋館がアジトの一つとして出てくる。戸山ヶ原は現在の新宿区大久保~百人町近辺を含む一帯で、明治期から軍用地であった。二十面相登場時には、だだっ広い原っぱ風景が都心に魔所のようなエアポケットを作り出していた。二十面相は、そうした都会の空隙に棲みつく魔物だ。明智小五郎の住まいが都会人の憧れる住宅ステイタスの動向を示すとすれば、二十面相のアジトは都会生活から疎外されたアウトローが巣くう境界・辺境を象徴する。
一方、用心深い二十面相は第二のアジトを同じく練兵場であった代々木にほど近い郊外住宅地に据えてもいる。変哲もない一軒家で、ご丁寧に北川十郎という仮名の表札まで掲げているのだから面白い。まさに二つの顔のために用意された、二つの住まいだ。表札を掲げ都会の一般市民に擬態する二十面相の住まいは、代々木のほか、世田谷区池尻(『妖怪博士』『夜光人間』)にもあり、いずれも近隣が軍用地というマージナルな土地柄である点も看過できない。
これら都会のエアポケットに点在するアジト間を漂流する二十面相は、都市に定住し得ない流浪の悲哀が、その自由な行動原理の裏側にぴったり貼りついている。二十面相の活躍に胸を躍らせる読者は、しかし最終的には都会のステイタスを一身に集めた定住者たる明智小五郎に捕縛される怪盗の姿に、都市という機構の残酷さをそこはかとなく感じ取るだろう。
探偵小説がすぐれて都市の文学だといわれる所以が、ここにあるのだ。
『国語教室』第123号より転載
プロフィール
小松史生子(こまつ しょうこ)
早稲田大学文学学術院文化構想学部教授。専攻は日本近代文学、推理小説、大衆小説。1998年、「アニミズムのエロス 江戸川乱歩論」で第5回創元推理評論賞佳作受賞。著書に『乱歩と名古屋―地方都市モダニズムと探偵小説原風景』(風媒社、2007年)、『東海の異才・奇人列伝』(風媒社、2013年)、『探偵小説のペルソナ―奇想と異常心理の言語態―』(双文社出版、2015年)、 共編著に『〈怪異〉とミステリ 近代日本文学は何を「謎」としてきたか』(青弓社、2022年)、論文に「衛生とミステリ―〈浴室の死体〉というモチーフ」(『日本サブカルチャーと危機』北海道大学出版会、2025年)など。
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