国語教育

いま、漱石を読む
第5回 語りは文学か――『夢十夜』「第一夜」
石原千秋

漱石没後100年、生誕150年の節目に、漱石の現代性を探る本連載。
第五回は、『夢十夜』「第一夜」を取り上げます。なぜ、夢らしく読めるのか?

なぜ夢らしく見えるのか

『夢十夜』を教室で読むときに避けて通れないのは、「なぜ夢らしく読めるのか」という問題だろう。「第一夜」も例外ではない。そこから考えてみたい。

いまでは文学研究上の常識になっているかもしれないが、ジェラール・ジュネットは、語り手は登場人物との情報量の差によって三パターンあるとしている(『物語のディスクール』)。①語り手>登場人物(いわゆる全知とか神の視点と言われる語り手である)、②語り手=登場人物(一人称小説である)、③語り手<登場人物(あれ? と思うかもしれないが、推理小説の語り手で、誰が犯人かを知らない)である。

『夢十夜』は「自分」という一人称の語り手だが、「自分」には知り得ないことが書いてある。つまり、「自分」が語り手である以上②であるべきなのに、①でなければ得られない情報が書き込まれているということだ。それが、夢らしく読める最大の秘訣である(藤森清)。「第一夜」に関しては、星のかけらを拾ったなどもいかにも夢らしいが、「自分」が百年経った(かどうかが問題なのだが、それはあとで)と気づいたところで「自分」の一生や認識を超えていて、夢らしいと感じられるだろう。

もう少し微妙なポイントもある。それは、はっきりした異化表現がいくつかあることだ。比喩と見分けにくいので説明しておこう。比喩は「彼女の頬はリンゴのように赤い」(直喩)のように「彼女の頬」と「リンゴ」は似ている(類似)関係にある。一方、異化表現とはそのものをはじめて見たもののように過度に描写するレトリックで、言い換えなのでイコール関係にある。「第一夜」でははっきりした異化表現が二つある。一つは、「長い睫に包まれた中は、只一面に真黒であった」は、すぐあとの「黒眼」の異化表現(過度な描写)である。すなわち「長い睫に包まれた中は、只一面に真黒であった」=「黒眼」である。もう一つは、「静かな水が動いて写る影を乱した様に、流れ出した」=「涙」である。これに「赤い日」を数えることが「一日」の異化表現と捉えることもできる。語り手にはそれぞれ「黒眼」、「涙」、「一日」とわかっているが、「自分」はそれがすぐにはわからないようだ。つまり、②なのに①的なテイストがあるわけだ。これらも「第一夜」を夢らしく見せている。

「わからない」が開く世界

「第一夜」の異化表現はどのようなことを教えてくれるだろうか。二つ挙げておきたい。

第一は、いま「自分」は「自分」の理解できない、わからない世界にいるということである。それが「第一夜」を夢らしくみせていることはいま確認した。「自分」にとっての最大の謎は、冒頭にある。

「女」は血色もよく「到底死にそうには見えない」のに、「もう死にます」と言う。「自分」はいったんは「確にこれは死ぬな」と思ったものの、「女」の瞳を見て不自然に思ったのだろう、「これでも死ぬのかと思った」。そして短い会話を交わした後も、やはり「どうしても死ぬのかなと思った」と疑問に思っている。はっきりした異化表現が二つとも「女」の「眼」を表現しており、「自分」にとってその「女」の「眼」が生き生きしているように見えることが、「もう死にます」という言葉と一致していないのである。「自分」の疑問を異化表現が支えているわけだ。

第二は、「女」の「眼」がそれ自体で特別な意味を持つことだ。「じゃ、私の顔が見えるかい」という「自分」の問いかけに、「女」は「見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんか」と答える。いま傍点を施した「そこに」がおかしいのだ。「自分」が「私の顔が見えるかい」と問いかけ、「女」がそれに答えた以上は、「ここに」(女の眼)でなければならないはずだからである(三上公子)。「そこに」では「自分」の方の眼を指してしまう。どうやら、もう「自分」と「女」は二人で一人になってしまっているようだ。そして、異化表現が「涙」を「水」と表現しているからには、「女」の「眼」は水鏡でもあるようだ。そう、「鏡の国のアリス」だ。ファンタジーにおける鏡は、この世界と他界との境界の役割を果たす。「自分」が鏡の向こうの世界に行くのは、ファンタジーの定めというものだ。

「女」は死んで他界に行ったが、二人で一人となった「自分」は、もう「女」の言う通りのことしかできない。真珠貝を使って、みごとなファンタジーテイストで墓を作り、「女」を埋葬した。そして待つ。ただ待つ。ひたすら待つ。

そのうちに、女の云った通り日が東から出た。大きな赤い日であった。それが又女の云った通り、やがて西へ落ちた。赤いまんまでのっと落ちて行った。一つと自分は勘定した。

しばらくすると又唐紅の天道がのそりと上って来た。そうして黙って沈んでしまった。二つと又勘定した。

何も「女」に言われなくとも、太陽は東から昇って西に沈むものだ。しかし、「自分」はそれは「女」がそう言ったからそうなっているように思っているらしい。「自分」は「女」の支配する時間を生きはじめているのだ。

ところが、いくら赤い日を勘定しても、「それでも百年がまだ来ない」。だから、「自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した」。この「女」への疑念は限りなく重要である。なぜなら、「自分」が「女」の支配する時間を生きて、すんなり他界に行ったとしたら、それは劇的でも何でもないからである。障害は大きければ大きいほど、それを超えた喜びも大きい。「自分」の「女」への疑念が百年分ふくらんで、「女」がまったき他者となったればこそ、すでに他界にいるだろう「女」との再会(?)が劇的なものになり、「自分」に無上のエロスをもたらすからである。

再会したのかしないのか

「自分」は「女」と再会したのかしないのか。答えが一つに決まったら、「第一夜」の魅力は半減する。いや、そもそも文学の魅力は半減する。

もっとも、答えは簡単に出るという人もいる。最後に「自分」は「百合」を見るが、「百合」という言葉は「百」と「合う」の組み合わせだから、「百年後に合った」というわけだ。こうして解決する人は決して少なくない。文学はどういうレベルで読んでも構わない言葉の芸術だから、こうして文字のレベルで読んでもいい。ただし、この解釈は生産的ではない。仮に教室でこの解釈が示されてもそれ以上議論にはならないだろう。納得するかしないかだけだからである。「なるほど」と受けて、先に進むしかない。

再会したとする解釈と再会していないとする解釈を一つずつ挙げておこう。

再会したとする解釈の決め手になるのは、「百年はもう来ていたんだな」という「自分」の気づきにあることは言うまでもない。「女」は「「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った」。「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」と約束したのだった。そうである以上、「女」は「百合」に姿を変えて「自分」に逢いに来たと考えるしかない。「自分」が「百合」を「女」だと信じない限り、「百年はもう来ていたんだな」とは思えないはずだからである。論理的にはこうなる。

もしかしたら、「暁の星」を見上げて「百年はもう来ていたんだな」と「気が付いた」その時、「自分」は目の前の「百合」が「女」だと思ったのかもしれない。そこには、「自分」の解釈が入っていたはずだ。そして、その解釈は読者のものではなかっただろうか。つまり「百年はもう来ていたんだな」と「自分」が「気が付いた」と読んだとき、読者も「百合」は「女」だと解釈して、それを「事実」だと思い込んだという意味である。これが再会説の実態ではないだろうか。

それではこの解釈を引きはがすことはできるだろうか。それが再会しない説につながる。最後の段落を読んでいくと気づかされることがある。「すらり」、「首を傾け」、「ふっくらと」、「ふらふらと」、など、「百合」の記述が擬人法かそれに近い表現になっていることである。解釈以前に、「百合」は「女」と読めるように仕組まれていたのだ。それは語りの力だと言っていい。だから、この語りの力を取り払えば、「百合が逢いに来た。女は来ない」ということになる(松元季久代)。これは語りの力を取り払って、意味内容だけを読んで導き出された結論である。その限りにおいてまちがってはいない。

そこで最後の文学的な問いがやってくる。語りの力を取り払って意味内容だけを読むことがはたして文学か、と。語りの力に無自覚なのは知的ではないかもしれない。しかし、文学の愉楽は語りの力に身を任せることにあるのではないだろうか。「第一夜」は語りの力と意味との間で揺れ動く。「第一夜」の授業は、再会したか否かを決めることにあるのではなく、なぜそのように読めるのかを知ることにある。その意味で、もっとも文学的な教材なのである。

『国語教室』第107号(2018年4月)より

著者プロフィール

石原 千秋 (いしはら ちあき)

1955年生まれ。早稲田大学教育・総合科学学術院教授。専攻は日本近代文学。夏目漱石から村上春樹までテクスト分析による斬新な読解を提供しつつ、国語教育への問題提起も果敢に行っている。著書に『漱石入門』(河出文庫)、『読者はどこにいるのか 書物の中の私たち』(河出ブックス)、『国語教科書の中の「日本」』(ちくま新書)など多数。

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