いま、漱石を読む
最終回 時代の中の個人主義――「私の個人主義」
石原千秋

時代の制約の中で
現代の日本において実質的に言論の自由が保障されていると感じるおめでたい人はいないと思うが、それでも憲法上は言論の自由は保障されている。漱石は法律上でも実質的にも言論の自由のない時代に作家として生きなければならなかった。その時代を、漱石はしたたかに生き抜いた。
「私の個人主義」という講演は、大正3年に学習院で行われた。前半が〈自分は「自己本位」という立場から英文学研究を行ってきたが、みなさんも「自己本位」をつかみなさい〉という若い人へのアドバイスとなっていて、この部分が教材の中心だった。後半は〈みなさんは将来権力と金力を持つことになるけれども、それで得られる自由と同じように他人の自由も尊重しなければならないし、権力と金力に伴う義務を果たさなければならない〉と教訓する構成になっている。漱石が人格と義務とをワンセットで語るのは、人格と道徳とをワンセットでとらえる、当時の日本では朱子学にもなぞらえられた、イギリス流の「自我実現説」を身につけていたからかもしれないが(日比嘉高『〈自己表象〉の文学史』翰林書房)、それだけではなさそうだ。
言うまでもなく、学習院は華族の通う学校で、多くは東京帝国大学に進学した。もともと社会の上流階級(こういう言葉がよく使われた)に属する人々が、さらに最高の学歴を得るための学校だった。こうした特異な学校の性格が、この講演後半の権力や金力をむやみに振り回すなという忠告になっている。漱石が権力や金力を生理的に嫌悪していたのは事実のようだが、全体としてはその嫌悪よりも、義務を強調するいかにも学校的な教訓に満ちた論調になっている。それは個人主義を説くための漱石なりの予防線だった。当時、個人主義は危険視されていたからで、事実この演題を危惧した学習院は講演をチェックし、「ああいう個人主義ならいい」と判断したという逸話が残っている。漱石の予防線が利いたのである。
漱石のエクスキューズ
こういう時代だから、漱石の批判の仕方も手が込んでいる。講演の後半ではこう語っている。
近頃自我とか自覚とか唱えていくら自分の勝手な真似をしても構わないという符牒に使うようですが、その中にははなはだ怪しいのがたくさんあります。(中略)いやしくも公平の眼を具し正義の観念をもつ以上は、自分の幸福のために自分の個性を発展していくと同時に、その自由を他にも与えなければすまんことだと私は信じて疑わないのです。われわれは他が自己の幸福のために、己の個性を勝手に発展するのを、相当の理由なくして妨害してはならないのであります。私はなぜここに妨害という字を使うかというと、あなたがたは正しく妨害しうる地位に将来立つ人が多いからです。あなたがたのうちには権力を用い得る人があり、また金力を用い得る人がたくさんあるからです。
時代の風に逆らうにはそれなりの工夫が必要だっただろう。漱石は、この後で権力や金力には義務が伴うと言いながら、イギリスは好かないけれども、反政府的な運動も弾圧されないと強調している。さらには「国家的道徳というものは個人的道徳に比べると、ずっと段の低いもの」で「詐欺をやる、ごまかしをやる、ペテンにかける、めちゃくちゃなもの」とまで言う。その少し前にはこういう一節が入る。
いやしくも人格のある以上、それを踏み違えて、国家の亡びるか亡びないかという場合に、疳違いをしてただむやみに個性の発展ばかりめがけている人はないはずです。私のいう個人主義のうちには、火事が済んでもまだ火事頭巾が必要だといって、用もないのに窮屈がる人に対する忠告も含まれていると考えて下さい。
前半はエクスキューズである。しかし、後半はまちがいなく国家主義者への批判である。エクスキューズと見せて批判する。これを学習院という場で語ったことの意味を考えればどちらが本音だかわかろうというものだが、これだけ慎重でなければならなかったのも事実だ。
「私の個人主義」という講演は、こうした厳しい時代と場の意味を考慮せずに、漱石のエクスキューズをこの講演の主旨だと「誤読」して、教育や社会のなかに引き継がれていたのではないだろうか。「自由や権利には義務が伴う」と。少し前なら、校長や社長の訓辞でよく使われたフレーズである。批評家なら、いまでも「個人の自由は他者とともにある」とかなんとか、もっともらしく説いている。どれだけ自由主義者の顔をしても、その心は同じだ。
では、私たちはこの講演から何を学べばいいのだろうか。
自己本位は伝わらない
漱石は、イギリスで英文学研究をしようにも手本がなくて、「この時私は始めて文学とはどんなものであるか、その概念を根本的に自力で作り上げるよりほかに、私を救う途はないのだと悟」り、科学や哲学に手がかりを見いだそうとしたのを「自己本位」だと言っている。
科学や哲学に対する信頼がややナイーブすぎるのはさておき、当時、現代英文学研究など世界のどこにもなかった。そもそも、英文学科が大学にあったのは、スコットランド、インド、アメリカの一部、そして日本だけである。これを見ておわかりだろうが、いずれもイングランドの高級な文化によって教化する必要があると思われていた国や地域である。いかにも植民地経営的な発想だ。日本では富国強兵の一環だったから、漱石の留学の課題は「英語研究」であって「英文学研究」でさえなかった。やや極端に言えば、漱石は世界ではじめて現代英文学研究を作り上げなければならなかったのだ。漱石の「自己本位」の覚悟と強度は生半可なものではなかった。漱石が自分の場所を見つけるまでとことん突き進みなさいと、異様なまでに「自己本位」を強調する理由もそこにある。
しかし、漱石はそれは伝わりはしないと、半ば諦めながら語っていたのではないだろうか。漱石の講演はどれも前置きが長い。「私の個人主義」でも、彼自身が教師になるまでの経緯を話し、しかも自分は教師の資格がないとも語っている。これは単なる謙遜だろうか。
柄谷行人『探求Ⅰ』(講談社)は、全編を挙げて教育とは何かを問うている。無理矢理短くまとめるなら、こうだろう。商品が売れるのは「命がけの跳躍」とマルクスが言ったのは、商品に価値があるから売れたのではなく、売れたことによって事後的に価値があると判断されるからだ。言葉が通じるのも、意味があるから通じたのではなく、通じたから意味があったと事後的に判断されるにすぎない。言葉が通じることも商品と同じように、「命がけの跳躍」の結果である。その証拠に、言葉が通じるために必要な言語のルール(ラング)をきちんと説明できる者などいない。
教育もまったく同様で、たとえば教訓に価値があるから教えることができたのではなく、相手がわかったから教訓に価値があったと事後的に判断されるにすぎない。つまり、商品の価値は買い手が決め、言葉の意味は聴き手が決め、教育の成立は生徒が決めるのである。しかし、それが伝わるかどうかは生徒次第だ。
私は教員になってもう36年になるが、いまだにわからないことがある。教育の根本である。私は大学1年生には半期(実質3ヶ月)の授業で4000字程度のレポートを3回課す。「叱る権利をもつ先生はすなわち教える義務」も持つから、すべて「、」の位置に至るまで細かく添削して、対話をしながら返却する。それで形式上のルールを覚えるのは当たり前だ。しかし、20点か30点しか取れなかった学生が(そういう点を平気で付ける)、3回目に突然90点に値するようなレポートがなぜ書けるようになるのか、それがいまだにわからないのだ。
武者小路実篤『友情』を3ヶ月一緒に読んでいてさえこうなのだ。ましてや「自己本位」を手に入れた学生など理解のしようがないと思う。今日の話がわからなかったら質問に来なさいと言う漱石は、伝わると信じていたようにも見える。しかし、それならどうして教師の資格はないと言うのだろうか。伝わるとわかっていることだけを教えるのは教育ではない。漱石が言いたかったのは、伝わるかもしれないし、伝わらないかもしれないが、それでも「自己本位」から「命がけの跳躍」をするしかないということだけだったのではないだろうか。それが個人主義というものだから「淋しい」のだ。その淋しさに耐えなければならないのは教師である。「私の個人主義」から学ぶのは教師でなければならない。
『国語教室』第110号(2019年4月)より
著者プロフィール
石原 千秋 (いしはら ちあき)
1955年生まれ。早稲田大学教育・総合科学学術院教授。専攻は日本近代文学。夏目漱石から村上春樹までテクスト分析による斬新な読解を提供しつつ、国語教育への問題提起も果敢に行っている。著書に『漱石入門』(河出文庫)、『読者はどこにいるのか 書物の中の私たち』(河出ブックス)、『国語教科書の中の「日本」』(ちくま新書)など多数。

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