青山あり! 中国祠墓紀行
第七回 三蘇墳(河南省郟県)
平井 徹
- 2023.09.20


▲蘇洵 塑像

▲蘇轍 塑像
三蘇とは、北宋の文豪蘇洵(そじゅん)(一〇〇九~六六)と、その子蘇軾(そしょく)(一〇三六~一一〇一)、蘇轍(そてつ)(一〇三九~一一一二)の併称。蘇洵を「老蘇」、蘇軾を「大蘇」、蘇轍を「小蘇」とも呼び、いずれも「唐宋八大家」に数えられる。特に蘇軾は中国文学史上随一のマルチな才人・芸術家・詩人として名高く、東坡(とうば)の号で知られる。軾と轍の兄弟は艱難辛苦をともにし、一生を通じて深い兄弟愛を貫いた。
郟県は河南省平頂山(へいちょうざん)市の北端、省都鄭州市からは西南の方角に当たる。北宋期には郟城県と称し、汝州(じょしゅう)に属した。洛陽(らくよう)から潁昌(えいしょう)(現在の許昌市)へ至る古道の通過点で、その道は、当時の都汴京(べんけい)(現在の開封市)へと通じていた。
北宋紹聖(しょうせい)元年(一〇九四)、蘇轍が汝州知州(州長官)に任官して赴任した際、久々に再会した兄の軾とともに、郟城附近の名勝をめぐった。蓮花山(れんかざん)(海抜六〇七メートル、「五岳」の一つ、中岳嵩山(こうざん)の南に列なる)西南のとある一峰の美しさが、家郷四川の峨眉山(がびさん)に似ていると感じた軾は、その頂を「小峨眉」と名づけ、その山麓を、自らの死後に帰する永遠の棲処(すみか)と定めた。

▲蘇軾 塑像
中国では伝統的に、先祖代々が眠る墳墓の地に葬られることを望むが、蘇家の場合、故郷四川はあまりに遠すぎ、弟轍をはじめとして、一族係累の多くが近辺に在住していたため、軾はこの地に墳墓を定め、親愛なる弟に後事を託したのである。その脳裡には、嘉祐四年(一〇五九)、故郷の四川を後にし、都汴京へ向かう途次に、父洵や弟轍ともども、初めてこの地に足跡を印した、若年時の記憶や印象があったかもしれない。
建中靖国元年七月、蘇軾は旅寓の途中、常州(江蘇省)で病歿した。翌年の閏六月、子の蘇過(そか)らの尽力で、その柩はこの地に改葬された。そのいきさつについては、弟轍の「亡兄子瞻端明(しせんたんめい)墓誌銘」の一文に詳しい。轍もその遺嘱によって、歿後同地に埋葬された。元の至正一〇年(一三五〇)、郟城県尹(県長官)の楊允(よういん)が蘇洵のために衣冠塚を築き、以後「三蘇墳」の名が定着した。

▲三蘇墳(左から蘇洵・蘇轍・蘇軾)
現代の郟県は交通不便な一地方都市であり、気軽に足を延ばすというわけにはいかない。周辺に取り立てて見どころもなく、私が訪ねた晩夏の午後も森閑としていた。近年、一帯のエリアは「三蘇園」として整理された。園内には、柏(はく)(常緑樹のコノテガシワ)が鬱蒼と茂っており、「思郷柏」と名づけられている。明代には三万株あったというが、現存するのは約六〇〇。三蘇の生前に開創された廣慶(こうけい)寺(別名蘇墳寺)境内には三蘇祠が建ち、元代に作られた泥塑像が実に奥ゆかしい。三蘇墳は、寺の東北三〇〇メートルの裏手にあり、神さびたたたずまいに包まれていた。明末李自成(りじせい)の乱、清嘉慶一八年(一八一三)の大飢饉、北洋軍閥時代、近いところでは文化大革命による破壊など、数多の荒廃と補修を得て、現在に至っている。
(写真はすべて2010年撮影)
『国語教室』第118号(2022年10月)より
一覧に戻る