古典

青山あり! 中国祠墓紀行
第八回 朱然墓(安徽省馬鞍山市)
平井 徹

▲朱然墓全景(2008年撮影)

 朱然(しゅぜん)(一八二~二四九)。三国時代、呉の孫権に仕えた武将。字は義封(ぎほう)。呉の創業を支えた豪族朱治(しゅち)(一五六~二二四)の甥(姉の子)で、十三歳で叔父の養嗣子に迎えられた。若年の頃、後に呉の初代皇帝となる孫権と机を並べて勉強した仲で、生涯強い連帯感で結ばれるに至った。十九歳で官に就いて以来順調に地歩を築き、徐々に呉軍の中核を担うようになり、数々の勲功を立てた。その中でも印象的な活躍は、蜀軍との戦いで敵将関羽を捕虜にしたこと(二一九)と、それに続く夷陵(いりょう)の戦い(二二二)で、別動隊の将として劉備の退路を断ち、大捷に貢献したことであろう(ちなみに、小説『三国志演義』第八十四回では、蜀の趙雲の槍に一撃されているが、フィクションである)。創業世代の功臣の中で最後まで生存し、武官の最高位である左大司馬、右軍師まで陞(のぼ)りつめた。晩年は病がちで、その死を孫権は大いに悼んだという。

▲墓室と木棺(2008年撮影)

 「三国志」では知る人ぞ知る、いぶし銀のような人物であるが、「朱然墓」の考古学的価値は、同時代随一である。一九八四年六月、長江下流の南岸、安徽省馬鞍山市街の雨山(海抜八十二メートル)南側一キロの地点にある小高い丘で、紡績会社の倉庫を建てていた際に発見された。規模は、長さ八・七メートル、幅三・五四メートルとわりと小ぶりであるが、墓道や墓室を備えた遺構や木棺が現存している。一九八七年には、漢代の建築を模した「三国朱然文物陳列館」(のちに「朱然家族墓地博物館」に改称)が併設された。

 一九九六年九月、施設拡張工事の過程で、朱然墓の西南三十メートルの位置に、新たに四つの墓が見つかった。遺構が残っていたのは一基のみであったが、これらは朱然の家族墓地であることが確認された。二〇〇一年、「全国重点文物保護単位」に認定。筆者は二〇〇六、〇八、一九年の三回訪れているが、すぐ脇にこじんまりした「朱然文化広場」ができ、朱然の像が立っていたものの、観光地化の波に洗われず、一貫しておだやかで静かな一角を保っていた。

▲朱然の木刺(2019年撮影)

▲青瓷羊(2019年撮影)

 注目すべきは、墓そのものよりも、一四〇点余りの文物であろう。殊に多くの漆器の出土は、この呉越一帯の文化を特徴づけるものであり、豊富とは言いがたい三国時代の考古学、美術史の空隙を埋める成果を挙げている。私の眼にとまったのは、「季札掛剣図漆盤(きさつけいけんずしつばん)」。直径二十五センチほどの漆の皿に、『史記』呉太伯世家(ごたいはくせいか)に載せる、春秋時代の呉の公子(プリンス)季札の故事が描かれている。劉向(りゅうきょう)『新序』や『蒙求』にも見える有名な逸話だが、この地域における説話の流伝を考えると興味は尽きない。「木刺」は十四枚出土している。長さ二十四・八センチ、幅三・四センチ、厚さ〇・六センチで、中国最古の名刺とされている。表面には楷書で「弟子朱然再拜 問起居 字義封」などと墨書してある。一九九六年に出土した「青瓷羊(せいじよう)」は、長さ三十三センチ、高さ二十一センチの青緑色の磁器製の羊である。蠟燭を立てるための生活用品として用いられたそうだが、この時代、器物をしばしば動物で象る作法が採られ、技術が大いに発展したという(実物は南京博物院で展示されていた)。あまりに可愛いので、等身大のレプリカを購入し、割れないように苦労して持ち帰ったことが思い出となっている。

『国語教室』第119号(2023年4月)より

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