青山あり! 中国祠墓紀行
第十回 陳勝墓(河南省永城市)
平井 徹
- 2025.06.11


▲陳勝王陵正面(2018年撮影)
陳勝(?~前二〇八)。字は渉。陽城(現在の河南省方城県)の人。秦の始皇帝歿後に、呉廣(?~前二〇八)とともに、中国史上初の農民武装蜂起の首領となる。彼らの挙兵は時流に乗り、秦王朝滅亡の引き金となった。司馬遷『史記』では、その事績を「陳渉世家」として、諸侯の伝記である「世家」の列に加え、班固『漢書』では、その後に現れて秦を滅ぼした項羽とともに「陳勝項籍伝」として編纂し、列伝の冒頭に置いた。いずれも、時代を切り拓いた人物として取り扱っていることがわかる。
秦の二世皇帝元年(前二〇九)七月、彼は長城近辺の国境守備に徴発されることになった。呉廣とともに組頭となり、九百人の壮丁を率いて北東方向へ途を取ったが、大澤郷(詳細は後述)まで来たところで、大雨のために行く手を阻まれてしまう。その名のとおり、この一帯は、当時小河川が入り組む沼澤地帯だった。秦の律は苛烈で、期限に間にあわなければ斬罪に処せられる。進退窮まった二人は同志を糾合し、いちかばちかの賭けで叛乱を起こした。
陳勝軍は向かうところ敵なしで、あっという間に軍勢は数万に増え、最盛期には数十万にまで膨れあがった。間もなく陳勝は王位につき、国号を張楚とした。しかし、章邯率いる秦の主力軍の反撃に遭うと、瞬く間に政権は瓦解する。敗軍のさなか、御者の荘賈の裏切りにより、陳勝は刺殺された。王位について、わずか半年後のことであった。

▲陳勝墓(2018年撮影)
「陳渉世家」は、「燕雀安くんぞ鴻鵠の志を知らんや」「王侯将相寧くんぞ種有らんや」といった故事名言で名高く、『史記』の中でも出色の一篇である。ここでは、「陳勝は碭に葬られ、諡して隠王と曰ふ」「高祖の時、陳渉の為に守冢三十家を碭に置く。今に至るまで血食す」との記述に注目しよう(「守冢三十家」は三十戸の墓守り、「血食」は犠牲を捧げて祭祀する意)。同様の記述は、地理書『水経注』(北魏の酈道元撰)にも見える。引用文中に見える「碭」の地が、すなわち陳勝墓の所在地であり、現在の行政区分では、河南省商丘市に属する永城市の東北、芒碭山主峰の山麓西南部に位置する。芒碭山は漢の高祖劉邦が旗揚げした直後に一時潜伏した要害の地でもあり、関連する史蹟も数多く分布している。陳勝墓は、後漢以降、長きにわたって廃れ、本格的な修復は、一九七五年まで待たねばならなかった。墓の高さ二・六メートル、周囲の長さ二十七・三メートル。墓碑には、現代の文学者郭沫若の筆による「秦末農民起義領袖陳勝之墓」の文字が刻まれている。「乱」ではなく「起義」の語を用いているのは、現代中国の史観では、彼らは革命を目指した者として、肯定的な評価を与えられているためである。私はここを二〇〇二年と二〇一八年の二度訪れているが、二〇〇六年に「陳勝王陵」として観光開発されたため、再訪時には面目を一新しており吃驚した。

▲陳勝呉廣起義旧址に作られた雕像(2019年撮影)

▲渉故台(2019年撮影)
陳勝呉廣が旗揚げした大澤郷には、「陳勝呉廣起義旧址」が現存する。安徽省宿州市街から東北へ四キロ、地元では「渉故台」と呼ばれる小高い丘で、彼らが兵を教練したところだとされている。面積は四四二七・八平方メートル、長く風雨に耐えた木立に覆われ、明・清・中華民国時代にかけて建てられた石碑数基が残っている。「渉故台」の手前には、一九八六年に落成した陳勝呉廣を記念する雕像があるものの、他に目立った建造物はない。ここも一九九八年と二〇一九年と二回足を運んでいるが、観光地化の波に洗われることなく、地方の農村の光景を留めていて、再訪時には、ある種の懐かしさを伴った既視感を覚えたものだった。
『国語教室』第121号より転載

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