青山あり! 中国祠墓紀行
第九回 王羲之墓(浙江省嵊州市)
平井 徹
- 2025.05.28


▲今も子孫に大切に守られている王羲之墓
王羲之(三〇三?~三六一?)。字は逸少。晋代の大貴族である「瑯琊王氏」(瑯琊は現在の山東省臨沂市)の出身。二十代から官途に就き、最終的に三品官である右軍将軍兼会稽内史(内史とは王国の領する郡の長官)に至ったことから、「王右軍」と呼ばれる。詩文に巧みで(現存する詩三篇、文章二十七篇)、熱心な道教(天師道)信徒でもあり、多彩な側面を持った人物であったが、「世を挙げて惟だ其の書を知るのみにして、翻つて能を以て自ら蔽ふなり」(顔之推『顔氏家訓』雑藝篇)と評されたように、早くから専ら書家としての名声が高まり、「書聖」と称えられている。彼の書を愛好した唐の太宗は「尽善尽美」(『晋書』)と最高級の賛辞を贈り、臨終の際に自らの陵墓「昭陵」に、「蘭亭序」の真蹟を埋葬するよう勅命を下したことはよく知られている。
王羲之の任地「会稽山陰」は現在の浙江省紹興市で、東晋王朝の都建康(現在の江蘇省南京市)からも近く、行政上の要地であった。永和九年(三五三)、かの有名な「蘭亭」での集いも、彼の主催により同地で開かれている。その二年後に致仕し、隠棲の地として選んだ嵊州(在世当時の地名は剡県)で、彼はその生涯を終えた。現在の嵊州市は紹興市が所管する県級市であり、北に省都杭州や紹興、東に寧波、西に金華を控え、「越劇」(伝統演劇の一つで、女性のみで上演される)の発祥地でもある。

▲「晋王右軍墓道」と記した石坊

▲王羲之の信仰の場であった金庭観(再建)

▲参道の左手奥にある王右軍祠(再建)
王羲之墓は、嵊州市街の東郊、金庭郷瀑布山南麓にある。風光明媚で、道教の理想郷である「洞天福地」と称されたこの地に一家とともに引き籠もり、宅地内に道観(道教寺院)を建立して仙道修行に勤しみ、風雅を友に暮らした晩年の七年間は、彼にとって幸せなひとときであったに違いない。現在この一帯は、「王羲之故居旅游区 書聖園」として整備され、観光地化している。王羲之墓に向かうアプローチの入口には、清道光九年(一八四九)の銘がある「晋王右軍墓道」と記した石坊が人々を出迎える。参道の左右には、金庭観、王右軍祠、碑廊など十余の建築物があるが、いずれも文化大革命中に破壊されて荒廃し、一九八四年以降に再建されたもの。突きあたりの墓域周辺は、風情ある落ち着いたたたずまい。墓碑には「晋王右軍墓」、裏には明弘治十五年(一五〇二)の年号が刻まれており、今なお、王羲之五十数代の子孫が墓を守っているとのことである。一九九七年、省重点文物保護単位に認定。なお、ここから一キロの華堂古村には、明代に建てられた王氏宗祠もある。
王羲之は、生卒年にも生地にも諸説あり、著名なわりに不明な点も多い。若い頃から将来を嘱望され、「骨鯁(硬骨漢の意)を以て称せられ」(『晋書』)、個性的なエピソードにも事欠かない。大貴族らしい洒脱ぶりを発揮する一方で、不羈奔放な一面は歳を追って強まり、常識家の人間との間には、まま軋轢を生じた。彼の悲願は、異民族の統治下となっていた華北の地の奪回であり、それを終生忘れることはなかった。芸術抬頭の機運が高まったこの時代、中国の芸術文化の骨格を形作った一人は、疑いなく王羲之である。その名品を賞美する時には、彼の生涯や文章の一字一字に託された内面性にも眼を向けたいものである。人生とその芸術とは、一貫したものがあるのだから。
※写真はいずれも2011年撮影
『国語教室』第120号より転載
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