おくにことばの底力!
第14回 岐阜方言は、東西どっちの方言?――真ん中の苦悩
山田敏弘
- 2024.02.06

日本全国だれもが同じ体重だと仮定して日本列島のバランスが取れる点、いわゆる人口重心は岐阜県にあります。言い換えれば、岐阜県こそ日本に住まう人々の中心なのです。
しかし、ことばの面で岐阜県は、西とも東ともつかない不思議な存在とも考えられています。さあ、その不思議を関ヶ原から読み解いていきましょう。
1 古代の不破関は何を堰き止めたか
天下分け目の合戦といえば関ヶ原の戦い。2023年の大河ドラマ「どうする家康」も、この地での合戦は大きな山場として描かれました。
西暦1600年の関ヶ原の戦いは、日本の政治・経済の中心が決定的に東に移るきっかけとなった合戦ですが、それ以前も以後も、関ヶ原は千年以上、東西日本がせめぎ合う土地として不動の位置付けにあります。
歴史好きな人はご存じでしょうが、関ヶ原は、西暦1600年の合戦以前にも2度、戦いの舞台となっています。1度は西暦1338年の青野ヶ原の戦いで、この戦いで敗れはしたものの勢いづいた足利尊氏は、京都に入り室町幕府を開くことにつながりました。さらに歴史を遡れば、西暦672年、天智天皇の弟大海人皇子と大友皇子がこの関ヶ原で戦い、東国勢の力を借りた大海人皇子が勝利し天武天皇として即位。古代の中央集権国家が確立した壬申の乱が、歴史上、最初の「関ヶ原の合戦」として知られます。
なぜ、これほどなんどもこの関ヶ原が大きな歴史の転換点の舞台となったのでしょうか。それは偶然ではなく、この関ヶ原が古代から東西日本の接点であったからです。詳しい記述は歴史家に委ねますが、そんな関ヶ原を有する岐阜県ですから、方言もおもしろくないわけがありません。岐阜県の方言は、この点だけでもおもしろいのです。
では、この関ヶ原は、どんなことばを堰き止め、どんなことばを東へと伝えたのでしょうか。堰き止められた代表は、何と言っても音声的特徴であると私は考えています。ちょっと話は飛躍しますが、古代ローマ人が攻め入ったガリア(現在のフランスおよびイタリア北部)やイベリア(スペイン・ポルトガル)などで、ローマ帝国の言語であるラテン語が、現地人の発音の癖を取り入れて変容していきました。この現象を考えれば、音の特徴は、その土地に元々住んでいた人々の特徴が残りやすいことがわかるでしょう。
日本に、そのような古代の音の特徴を伝える資料はほとんどないのですが、現在でも関ヶ原から東へ数キロ行った揖斐川支流杭瀬川を越えると東京式アクセントに変わることは、おそらく古代からほとんど変わっていないでしょう。アクセントの点では、岐阜県より東は古代の東国の音声的特徴を伝えていると考えられます。つまり、古代、今の関ヶ原にあった不破関は、東の民と西の民を分け、その音声的特徴をも堰き止めた象徴であったと言えるのです。
大河ドラマなどでは描かれませんが、私は、織田信長が最初に上洛したとき、奇妙な都のアクセントやイントネーションに驚いたのではないかと想像します。自分の東国アクセントを隠そうとしたかどうかまでは分かりませんが、コンプレックスを感じた可能性もあるのではないでしょうか。
2.江戸時代以降、それでも岐阜への京都の影響の流入は続く
関ヶ原の合戦以降、政治の中心は江戸に移り、天下泰平の世の中となりました。農民の定住化が進み、「くに」からほとんど出ることがなくなったことで、各地の方言の特徴、特に語の特徴は、色濃くなっていったと考えられます。実は、京都や江戸など一部地域を除いて、明治以前のことばの特徴は、ほとんど知る手掛かりがありません。よく、戦国時代を舞台にしたドラマなどで、豊臣秀吉が「うみゃー」(美味い)や「おみゃー」(お前)など「みゃーみゃー」言っているように描かれますが、私の知る限り、そんな証拠もないようです。
確かに、江戸時代初期には、イ音便化に伴って生じた連母音が融合する現象が各地で聞かれるとの記述はあります(新村出1933「方言覚書」『雑誌方言』)。しかし、岐阜(美濃)や尾張名古屋で現在行われているような「エァ」のような音が戦国時代にあったと明確に記されている資料に、私は出会ったことがありません。よく分からないというのが現状です。
だからと言って、江戸時代に美濃地方や飛騨地方に方言がなかったということにはなりません。その証拠は、現代の岐阜方言に表れています。たとえば、「うらやましい」という意味の「ケナルイ」は、平安時代に京都で使われたことばで、現代の方言とは意味が異なりますが、古語辞典にも載っています。しかし、共通語としては継承されず、東北から中国四国地方までに方言として残っています。平安時代に都で使われたことばが、意味を変え遠くにまで広がり、現代の岐阜にも残っていると言うことは、その中間の時代に、おそらく美濃でも使われていた証しでしょう。もちろん、その当時、このことばが京都や江戸でまったく使われていなかったという証拠もありませんので、「方言」、すなわち当時の標準的なことばと異なる地方特有の語とは言えないかもしれませんが、少なくとも江戸時代の美濃地方にはふつうに行われていたと推察されます。
このように、江戸時代には多くのことばが京都から伝わり、さらに美濃路を通って尾張へ、あるいは中山道を通って信州へと伝わっていったでしょう。このことは、現代の分布にも表れています。「トーマメ」は「唐豆」で、現代で言う「空豆」のことですが、現代の岐阜県や愛知県の地図では次のような分布をしています。

「トーマメ」の分布(愛知県・岐阜県)
記述された時代はばらばらなので、完全な同じ時期の分布とは言えないのですが、京都から見てより遠くに「トーマメ〇」、より近い岐阜県西部や愛知県西部に「トマメ◆」が見えます。人間は怠惰な生き物ですから、ことばを発するとき省力化して短く言おうとします。そのことを考えれば、「トーマメ」が「トマメ」に変化したことは一目瞭然。この変化は、やはり西から東へと、現代でも移って行っており、江戸時代にもそうであったと推察されます。つまり、関ヶ原経由で京都のことばを尾張に伝えたのは(三重県を通る東海道ルートもあった可能性は否定できませんが)美濃に住んでいたふつうの人々であったということです。
この他にも江戸時代、移動の制限がある中でも、ことばは、確実に西から東へと伝わっていった、そんな痕跡を現代の岐阜県に見ることができます。
ただし、すべてが東へと伝わったかというとそうでもありません。継続を表す「〜ヨル」(「雨が降っている」の意味で使う「雨、降リヨル」など)は、岐阜県から一部、長野県南部や愛知県三河地方の山間部に伝わりましたが、そこでは山岳という自然障壁に阻まれ、それ以上は東進することができませんでした。それどころか、関西地方から始まった「〜ヨル」の意味の変化によって、岐阜県西部で「〜ヨル」は「降りやがる」のような軽卑的な意味に変わりました。
こうして、岐阜県内では地域によって、継続を表す「ヨル」と、軽卑的な意味の「ヨル」という、意味の違いが生じたのです。西の方言の東の果てとなることも多い、これも大きな岐阜方言の特徴の1つです。
3.名古屋からの影響
古くに京都で発したことばの多くは、美濃を通って東に伝わったという話をしましたが、江戸時代には尾張藩の影響が美濃に多く及ぶようになりました。象徴的なのは、何と言っても文末表現を含む語彙的特徴です。
名古屋で生じた敬意を含む終助詞の「ナモ」の分布については、芥子川律治氏の『名古屋方言の研究』(p.260)に詳細な地図が示されていますが、美濃地方に色の濃い地域が多く見られることに気づくでしょう。

芥子川律治著『名古屋方言の研究』より引用
実は、この色の濃い地域は、美濃和紙の集散地である美濃市や木曽ヒノキの産地である中津川市北部など、当時の尾張藩にとって重要な地域と重なります。つまり、尾張の支配が強くあった場所に、ことばの痕跡も残ったということです。
おもしろいのは、この影響の及ぶ境界線が、現代でもそのまま残っているということです。美濃市から北上すればすぐに郡上市。ここで調査をしたとき、美濃市にはある「エァ」のような連母音の融合が、郡上市に入ったとたんになくなることがわかりました。数キロも離れていなくても、明確に境界線が残っていることには、驚きを禁じ得ません。江戸時代から独立した藩であった郡上を除き、美濃は尾張からの影響を被ってきたのですが、その影響は現在の方言を知ることでも見えてきます。
現代でも名古屋からの影響はどんどんやってきます。岐阜駅と名古屋駅は、JRの新快速で20分。同じ愛知県の三河地方の岡崎や豊橋よりも近いということに加え、上で述べたような歴史的なつながりもあって、名古屋は、常に岐阜県美濃地方に影響を与え続けています。
「自転車」を表す「ケッタ」(「蹴りたくる」が語源)が名古屋発祥のことばとして有名ですが、今では、名古屋市よりも周辺の尾張地方北部や美濃地方南部で使われていますし、「鉛筆の先などが尖った状態」を表す擬態語の「トキントキン」(「研ぎ研ぎ」が語源)なども、この数年で岐阜と愛知の県境である木曽川を越えたとの調査結果も出てきました。美濃への尾張の侵食は現代でも続いているのです。
現代、名古屋から広がっていることばは、おおよそ子どもが使うような身近なことばです。中には、こどもの遊びのことばのようなものもあります。地図は、岐阜市の東隣に位置する各務原市の「チームわけジャンケン」の変化ですが、昔は岐阜市と同じ「グーとチョキ」を用いていた地域も、南部から隣接する愛知県の「グーとパー」を用いるやり方が岐阜県にも入り込み広まっていることがわかります。まさに外来種のことば。なかなか手強い侵略者です。
4.それでも岐阜は岐阜〜ハイブリッド方言をめざして
こうやって見てくると、西からも南からも責め立てられて、岐阜らしさってなにと言われるかもしれません。もちろん、岐阜県独自のことばもあります。「大嫌い」を表す「キッツキライ」の類は岐阜市周辺にしか見られませんし、「方違え」が変化して「困惑する」という意味になった「ホータガイ」も、岐阜市から東にわずかに広がる程度の狭い分布をもっています。近年では、「漢字ドリル・計算ドリル」の略称である「カド・ケド」が岐阜県全県に広がり、さらには愛知県尾張地方北部にも広がりつつあります。このような純粋な岐阜県語も存在します。
大切なことは、東西のことばの特徴を共有しながらも、独自のことばの文化をもっていることです。どちらかに似ていながら非なるものには、「エセ〇〇方言」との汚名も着せられますが、東のアクセントの特徴と西の語彙・文法の特徴を併せ持つ、岐阜はまさに和合の地。それは、言い方によっては、ハイブリッドと呼べる唯一無二の特徴なのです。
今こそ、正しく関ヶ原をはじめ岐阜の歴史と地理が、ことばや人々の生活にもたらした影響の意味を知り、岐阜方言の正しい知識をもって郷土を誇れるような教育が望まれます。
著者プロフィール
山田敏弘(やまだ としひろ)
岐阜市生まれ。岐阜大学教授。専門は日本語文法。教育学部教員として、文法の教授法や地元の方言にも関心を持ち論考も多数。教養教育では、あいみょんの楽曲を日本語学的に分析する講義も担当。文法を核にさまざまなフィールドに関心を持ち考察している。主な著書・論文に、『初級を教える人のための日本語文法ハンドブック』(共著・2000 スリーエーネットワーク)、『国語教師が知っておきたい日本語文法』(2004 くろしお出版)、『岐阜県方言辞典』(2017 岐阜大学)などがある。

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