ことば・日本語

日本語の展望台から
第1回 「名前が3回変わる」とは「名前が2回変わる」こと?
定延利之

1.言語現象の「正常」と「異常」

 先日,大修館書店の総務部経由で,ある方からご質問をいただいた。その内容をひとことで言えば,私が拙著『日本語不思議図鑑』(2006,大修館書店)で紹介したある現象について,「そんな現象が本当にあるのか?」となる。「本当にあります」と,新たな実例を挙げてお返事したことは言うまでもないが,このように言語現象が一般通念に反することは実は珍しくない。

 もっとも,一般通念に反する言語現象が「異常」な現象というわけではない。天体の運行を調べる天文学者が「最近の星はどうも乱れて異常だ。けしからん」などと言ったら,その天文学者は(天文学者としては)おしまいだろう。星の運行と自分の考えが合わないなら,それは星のせいではなく,天体の運行に関する自分の考えが不十分なせいである。星は乱れることなく常に整然と運行している。その運行ぶりを,自分の考えと合うから「正常」,合わないから「異常」と考えるのは間違っている。「異常」な現象などというものはない。天体現象と同じことが言語現象についても言える。

 しかしながら,「異常」な現象は,自分の考えの不十分さを自覚し,これを改善するヒントを与えてくれる点で,「正常」な現象とは違っている。研究者が「異常」な現象に高い価値を見出すのはそのためである。また,研究者でない一般の方々にとっても,その「異常」ぶりは単純に目を惹き,言語への興味をかき立てるだろう。

 ということで,とりわけ「異常」な現象からこの連載を始めたい。あまりに「異常」すぎて,私以外には誰も手をつけず発言もない,それは『度数余剰』という現象である。

 

2.『度数余剰』とは何か?

 『度数余剰』の実例として(1)を挙げる。(以下,該当箇所に下線を引く。)

(1) 私は既に三度,盗みを繰り返し,ことしの夏で四度目である.

[太宰治『玩具』1935]

 例(1)の前半部では,4度目の窃盗を行う前の主人公の窃盗歴が表現されている。4度目の窃盗の前には3つの窃盗があったはずで,したがって[窃盗を繰り返す]というデキゴトは2度あったはずである。しかし,(1)では「盗みを繰り返す」度数がそれより1つ多く,「三度」と表現されている。『度数余剰』とはこのような現象を言う。

 なお,この『度数余剰』は,連続する事物どうしの同質性(いまの例で言えば3つのデキゴトは皆「盗み」であること)を述べる表現に生じており,「重なる」類と分類される。「重なる」類の他には「変わる」類がある。「変わる」類は「重なる」類よりも受け入れられにくいので,「変わる」類の方が「珍種」と言えるかもしれない。といっても,「変わる」類もすんなり受け入れる話者は沢山いる。以下のような実例が見つかるのはそのためである。ネットニュースから採った実例(2)を見よう。

(2) 踏切に無人の車が進入,衝突した電車の先頭車両脱線。大阪市の会社員男性は「電車が止まり,車内にガソリンのにおいが漂っていた。アナウンスで『駅の渋滞です』,次に『パンタグラフが故障した』,最後に『事故です』と3回内容が変わった」と話した。

[アメブロ https://ameblo.jp/abiko2/entry-12639848360.html 最終確認日:2024年11月9日]

ここでは車内アナウンスの内容が3つ述べられている。したがって,デキゴト[内容が変わった]の個数は2つである。しかし「内容が変わった」度数はそれより1つ多く,「3回」と表現されており,『度数余剰』の「変わる」類が生じている。「変わる」類とはこのように,連続する事物どうしの異質性(アナウンスの内容が各々異なっていること)を述べる表現に生じる『度数余剰』を指す。

 こんな現象があっていいはずはない,これはきっと異常な現象(話し手の数え間違い,あるいは書き間違い,あるいは最近のことばの乱れ)に違いない,と思う読者のために,さらに実例を挙げよう。次の(3)は歴史小説,(4)は魚の生態や調理法を紹介した一般書,(5)は科学論の啓蒙書,(6)は人気マンガから採ったものである。

(3)  家定の正夫人は,三度変った。最初十八歳のとき,同年の夫人(鷹司〔たかつかさ〕氏)と婚姻したが,数年で疱瘡で死んだ。ついで一条氏をめとったが,輿入〔こしい〕れした翌年に死んだ。このひとは十歳ぐらいの背丈しかなく,脚がわるかった。
 三度目は,島津氏からきた有名な篤姫〔あつひめ〕(のちの天璋院〔てんしょういん〕)だったが,いずれの夫人とも,子はなしていない。

[司馬遼太郎1979『胡蝶の夢(二)』新潮文庫, p. 154]

(4) 四回名称を変える
 ボラは成長とともに名称が変わる出世魚で,ごく小さい稚魚をオボコ(あるいはスバシリとも呼ぶ),淡水に入ってくるころをイナ,海に帰って成熟したものをボラと呼ぶ。さらに成魚となってトドという。

[成瀬字平・西ノ宮信一・本山賢司 1993『図説魚の目きき味きき事典』講談社+α文庫,p.357]

(5) フロイト自身も,この無意識の欲求が何であるかについて,三度にわたって理論を変えた。最初は性と生存への欲求,次に愛と攻撃性とみなし,最後に生と死であると述べた。

[C+Fコミュニケーションズ 1986(編著)『パラダイム・ブック』日本実業出版社, p. 236]

(6)

[双葉文庫 じゃりン子チエ 6巻 254頁 Ⓒはるき悦巳/家内工業舎・双葉社(傍線は定延による)]

例(3)では13代将軍,徳川家定の正夫人が通算3人(鷹司氏の女性・一条氏の女性・島津氏の女性)と記されているが,「変った」度数は「二度」ではなく「三度」と記されている。例(4)でも,ボラの名前が生涯で4つとされながら,「名称を変える」のは「三回」ではなく「四回」とされている。例(5)でも,無意識の欲求に対するフロイトの理論が通算3バージョンとされつつ,「二度」ではなく「三度にわたって」「理論を変えた」とされている。例(6)は例(4)と似た例で,猫が自分の名前を通算3つ挙げていながら,名前が「二回」ではなく「三回変った」と述べている。

 作家や編集者,そして無数の読者の目をかいくぐって今日まで読み継がれてきたこれらの例は,数え間違いや書き間違い,乱れによるものではないだろう。名前を通算3つ持つ猫が「名前が一回変わった」と言うような,算数どおりの度数(「二回」)よりも1少ない『度数欠如』という現象を仮に考えた場合,これは出版物にまず現れない。間違い,乱れによるもので,たちまち気付かれ,出版前に修正されるからである。『度数余剰』は『度数欠如』とは異なり,(全てではないが)相当数の日本語母語話者にとって自然なものである。

 

3.『度数余剰』のアンケート調査

 このことは,アンケート調査で確かめることもできる。以上の実例のうち(1)~(5)の数字の部分(例(1)なら「三度,盗みを繰り返し」の「三」の部分)を「X」に変えた上で日本語母語話者の老若男女131人に示し,「X」に当てはまる数字について,3つの選択肢ABCから一つを選んでもらった(実施時期:2022年7月)。

 選択肢Aは,例(1)の場合なら「2」,つまり算数どおりの,いわば『度数整合』の値である。選択肢Bは,例(1)なら「2でも3でも可」,つまり『度数整合』の値でも,それより1つ多い『度数余剰』の値でもよいというものである。そして選択肢Cは例(1)なら「3」,つまり『度数余剰』の値である。なお,彼らには,この調査が彼らの計算能力ではなく言語感覚を調べるものであることを事前に伝えている。

 結果は以下の図1~5のとおりである。たとえば図1では,(1)について選択肢A「2」を選んだ回答者が1人,選択肢B「2でも3でも可」を選んだ回答者が24人,選択肢C「3」を選んだ回答者が106人いたことが示されている。これを見ると,『度数余剰』の「重なる」系が,『度数整合』よりも遙かに好まれていることがわかる。これが「変わる」系になると,そのような圧倒的な差はなくなり(図2・3),例によっては『度数整合』の方が優勢になる(図4・5)。だがそれでも,選択肢Cに,どちら付かずの選択肢Bを加えれば,『度数余剰』容認派は過半数に至っている。

 

4.私たちの頭の働き方

 『度数余剰』がどのように「異常」でなく,『度数整合』と同様の「正常」な現象かということについては,すでに拙著に(専門書『認知言語論』(2000,大修館書店)に詳しく,一般書『日本語不思議図鑑』に簡単に)書いたことであり,ここでは繰り返さない。最近,より簡便な説明方法を提案するに至ったが(※),それもよいだろう。

 言語について,いまこのように理屈で考えている私たちには,『度数整合』だけが唯一の「正常」現象に見えるかもしれない。算数のテストなら,実際それが唯一の正解になるだろう。しかし,現実には『度数整合』だけでなく『度数余剰』も生じる以上,その理屈は現実に対する説明案としては正しくない。

 日常生活の中でことばを話したり聞いたり,あるいは書いたり読んだりする時の私たちは,いまの私たちとは違った頭の働き方をしている。『度数余剰』が成立し,時に『度数整合』を圧倒しさえするのはそのためである。説明すべき現実とは,その頭の働き方に他ならない。このことさえご理解いただければ,この第1回の目的は果たされたと言える。

 ちなみに,私が質問を受けた「ある現象」とは,『度数余剰』ではない別の現象である。言語の「異常」はまさに私たちのありふれた「日常」である。

 

※定延利之・鄭雅云「算数の計算より度数が1つ多く表現されるとはどういうことか?」日本認知科学会第40回大会,公立はこだて未来大学,2023年9月8日.

 

著者プロフィール

定延利之(さだのぶ としゆき)

京都大学大学院文学研究科教授。無視・軽視されている「周辺的」な現象に目を向け,そこから言語研究の前提を検討している。主な単著に『認知言語論』(2000年,大修館書店),『煩悩の文法』(2008年,筑摩書房,増補版2016年,凡人社),『コミュニケーションへの言語的接近』(2016年,ひつじ書房),『文節の文法』(2019年,大修館書店),『コミュニケーションと言語におけるキャラ』(2020年,三省堂)がある。

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