国語教育

〈BOOK REVIEW〉 いま、高校生に読んでほしい本
夏川草介『スピノザの診察室』
内田 剛

夏川草介『スピノザの診察室』(水鈴社、2023年)

夏川草介『スピノザの診察室』(水鈴社、2023年)

古都の風情を背景に現役医師の著者が到達した揺るがぬ哲学!
人として生きていくうえで必要な究極の「学び」がここにある。
 

「人間はね、一人で幸福になれる生き物ではないんだよ。」(p.35)

 物語の主人公は雄町哲郎。30代後半の地域医療で働く内科医だ。エリート医師であったが、シングルマザーだった妹が亡くなり、一人残された甥の龍之介と慎ましい二人暮らしをしている。

 本書の舞台は京都である。碁盤目状に整えられた街並みと複雑に入り組んだ路地が、まるで一筋縄でいかない人生の象徴のようだ。五山の送り火など夏から秋にかけての古都の風情が実に鮮やかに再現され、物語の持つ豊かな思索に深みを与えている。哲郎が大の甘いもの好きなため、長五郎餅や阿闍梨餅、矢来餅など名産品が登場するのも読みどころのひとつ。柔らかな伝統の風味には、温かな人間味まで込められているのだ。

 著者の夏川草介は、映画化もされてシリーズ累計330万部を超える大ベストセラーとなった『神様のカルテ』を世に送り出したことで知られているが、地元・長野で地域医療に携わる現役医師でもある。人気作家であると同時に、患者の喜びと悲しみを目の当たりにする命の現場の最前線にいるのだ。本書から醸し出される圧倒的な説得力は、常に「生」と「死」を見つめ続ける、厳しい日々の地層から成り立っているのだ。

 17世紀オランダの哲学者の名前をタイトルに冠していることからも明確なように、強いメッセージが驚くほど真っ直ぐに伝わってくる。哲郎の最大の関心事は「人の幸せはどこから来るのか」ということ。本当の幸福とは何かを問いかける格好のテキストであり、人生の真理を分かりやすく教えてくれるバイブルともなる一冊でもある。

 人の命を預かる医者として何ができるのか。苛烈な運命を前にして無力な人間はどうすればいいのか。哲郎が最後に到達した境地は涙なしには語れない。夏川草介その人が実体験から掬いとった血の通った哲学なのである。多くの方に読まれるほどに、この世界の霧は晴れていく。人が人として生きていくために必要な「学び」がこの小説に凝縮されているのだ。

『国語教室』第121号より転載

著者プロフィール

ブックジャーナリスト。約30年の書店員勤務を経て、2020年よりフリーに。NPO本屋大賞実行委員会理事。

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