国語教育

エッセイ
「躓(つまず)きの石」と共感共苦――物語にできること
朽木 祥

 物語にはさまざまな力がありますが、その一つに、想像力を通じて目撃させることで「共感共苦」を得る力があります。しかし、例えばホロコースト文学を評して「あの日あの場にいなかった者にはアウシュビッツを目撃することなど不可能だ」と断じた研究者たちがありました。言い換えれば「他者の苦痛に真の意味での共感などできるものか」ということでしょう。

 確かにその通りなのです。アウシュビッツと同じく、ガザでの虐殺と同じく、ヒロシマの原爆投下時の熱や爆風を共に感じ、共に苦しむことは不可能だろうと思います。とはいえ、諦めるわけにはいかないのです。とにかく、まずは伝えなければなりません。

 第二次世界大戦への深い反省から、欧州では盛んに「記憶の義務」「警戒の義務」が唱えられてきました。

 現代を生きる私たちには、負の歴史を記憶し伝える義務と、未来に二度と同じ過ちを起こさないように努める警戒の義務があるということです。

 欧州のなかでもドイツでは自虐的といえるほど平和教育に熱心です。ヒロシマにも関心が深く、先年ミュンヘンの児童文学祭に招かれてギムナジウムや実科学校、ミュンヘン大学などで講演してきました。

 『光のうつしえ』独語版が出る前のことで、英語版に加え、ある章が独語訳されてテキストに。それが偶然、大修館教科書にも所収の「須藤さんの物語」でした。ドイツの高校生たちは驚くほど熱心にテキストを読み込んでいて、質疑応答も活発でした。英語版刊行後の反響同様、言語の壁をクリアさえすればヒロシマの記憶が世界に届くと実感させられました。

 さて、ドイツ滞在中に実際に見ることのできた戦争モニュメントの一つに「(つまず)きの石」がありました。真鍮のプレートが貼り付けられた10センチ角のコンクリートブロックで、ホロコースト犠牲者のかつての住宅前、通りの石畳に埋め込まれています。ドイツから始まって、現在までに30ヵ国近くで7万個以上設置されているということです。「躓く」は言葉の綾で、フラットに埋め込まれているので、気がつかずに踏んで通り過ぎることもあります。「一つの石に、一つの名前、一人の人間」という決め事があって、各々のプレートに犠牲者の名前、生年月日、連行日、死亡日と場所等が刻まれています。6つ、7つと複数並んでいるところもありました。家族だったのでしょうか。

 「躓きの石」設置プロジェクトについては、生き残ったユダヤ人たちからの抗議もあったそうです。「死後までも犠牲者を足で踏みつけるようなモニュメントの設置の仕方は不謹慎だ」という理由でした。この心情は個人的にも理解できました。広島でも「平和公園辺りに行くと、死んだ人らの頭を踏んで歩いているような気がする」と親族からよく聞いていたためです。

 しかし、そのような心情は理解できてもなお、「躓きの石」プロジェクトには、大きな意味があると考えました。私たちが足下の「躓きの石」に躓くとき、きっと心でも躓くからです。そのとき、私たちは犠牲者を悼み、負の記憶を思い起こすことでしょう。

 物語にも同じことができるのではないかと私は考えています。遠い昔の、あるいは遠い国の「負の記憶」についても、もし心で目撃できるような物語を綴ることができるならば、深い共感共苦を呼び起こすことができるのではないか。そして、物語を通じて読者が犠牲者を「個」として認識できたなら、その犠牲者はもはや単なる数でも名前でもなくなって、かつてこの世で私たちと同じように生きていた「人」として立ち上がってくるのではないかと。

 もっといえば、あの日まで廣島で、日々を重ねていた人びとの喜びや悲しみ、笑いや涙ならば、また、あの日一瞬で奪われたあれこれについてならば、私たちは容易に想像できるはずなのです。自らに引きつけて共に感じたり共に苦しんだりすることができれば、自分事として捉えることもできるかもしれません。そうして、原爆がもたらした凄まじい悲劇を「想像力を通じて目撃」し、他者の苦痛に「共感共苦」を寄せることも、できるのではないか――私は、そんなことを考えながらヒロシマを描いてきました。

 「須藤さんの物語」でも、人々のささやかな、しかし、かけがえのない暮らしや思いを描いています。この小さな物語が時間や距離を超えて読者の共感共苦を促し、平和な未来を希求する一助となりますように。

『国語教室』第123号より転載

「光のうつしえ──須藤さんの物語」

広島に一人で暮らす年輩の女性、「須藤さん」。彼女には原爆にまつわる悲しい過去があった…。戦争の悲惨さと、愛する者への思いが胸をつく小説。

(『新編 言語文化 改訂版』)

 

著者プロフィール

朽木 祥(くつき しょう)

1957(昭和32)年、広島県生まれ。被爆二世。広島を舞台にした作品を中心に、さまざまな作風で支持を集めている。主な作品に『光のうつしえ』『かはたれ』『風の靴』など。

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