エッセイ
声がくるのを待っているだけ
小津夜景
漢詩でどう遊んでいるか、自作を例に説明してくださいとの依頼である。なるほど、学問的なことはわからないけれど、たしかに遊んではいる。根っからのプレイヤーなのだ。そうした立場から、①俳句による本歌取りのほか、②連句、③短歌、④定型詩、⑤自由詩による訳を、すこし欲張ってつめこんでみた。
①俳句による本歌取り。初めて書いたのは、
閑居初夏開魂匣愛撫哉
という句。元ネタは南宋の詩人・楊万里の詩「閑居初夏午睡起(閑居初夏、午睡より起く)」である。閑居、初夏、午睡――この語の並びがあまりにもきゅんとくるので借用した。意味は自分でもよくわからない。直感だけで書いている。
②連句訳。試したきっかけは中唐の詩人・李賀。この人の詩は、論理よりも幻視、整合よりも飛躍を大事にしている。つまり「わかりにくさ」こそが醍醐味。訳すときも、意味がとれないからといって安易に行間を埋めるのは御法度だ。では、どう訳すかと考え、連句かな、と思った。数人が交互に詩句をつなぐ転じの芸術は、原詩の断絶や飛躍に対応しやすい。「贈陳商(陳商に贈る)」の冒頭を引く。
長安の都に男の子ありにけり
はやも朽ちたる二十歳の心
机には涅槃の経のうづたかく
いつでも楚辞は肌身離さぬ
人生をややこしくする三叉路か
日も暮れ方の酒をいささか
どの道をゆけど塞がる音のして
白髪となるを待つまでもなし
長安有男児
二十心已朽
楞伽堆案前
楚辞繫肘後
人生有窮拙
日暮聊飲酒
祗今道已塞
何必須白首
③短歌訳。白居易が友人と、長安郊外の寺院でひたすら勉強していた、青春どまんなかのような日々を描いた詩「春中与盧四周諒華陽観同居(春中盧四周諒と華陽観に同居す)」から引く。いやもう、ふたりの蜜月感がすこぶる甘酸っぱい。特に「深夜月」「少年春」といった濃密な情感は、短歌にぴったりだと思う。
ともしびをぐいとそむけてあひみての今は臥し待つ真夜中の月
花かげをかたみにふめば相惜しむ逢瀬にも似てわかものの春
あんず咲く鄙の住まひは平穏でヴァカンス気分もてあましたり
ペンをもて世渡る身とはなるなかれこの貧しさはどうにもならぬ
背燭共憐深夜月
蹋花同惜少年春
杏壇住僻雖宜病
芸閣官微不救貧
④定型詩訳。白居易が亡き友との再会を夢に見、その深い友情と喪失の痛みをつづった詩「夢微之(微之を夢む)」から冒頭を引く。絶望をやわらかな語りで覆うためにわらべ唄の調子にした。
よるはてとてを つなぎあい
あなたとあそぶ ゆめをみた
あさにめざめて はんかちで
ふけどなみだは とまらない
夜来携手夢同遊
晨起盈巾涙莫収
⑤自由詩訳。わたしは文字をじっと見つめて、一語ずつ逐語的にたどっていく訳し方が好きである。だから、訳すときは9割方、文字数にしばられない自由詩のかたちになる。訳の「声色」は、自ら選ぶのではなく、向こうから訪れるのを待つ。同じ曲でも、どんな声になるかで印象はがらりと変わる。たとえば明末清初の詩人・呉偉業の詩「梅村」では、女性の声が降りてきた。
お出かけするよりお招きするのがたのしくて
筆まめじゃないくせに手紙をもらうのが好き
窓辺で雨を聴きながら 詩の本をめくるのや
樹上に雲を眺めながら 石の台にのぼるのも
不好詣人貪客過
慣遅作答愛書来
閑窓聴雨攤詩巻
独樹看雲上嘯台
こんなふうに形式を渡り歩いている。本当にただの遊びだ。それ以上でも以下でもない。
『国語教室』第124号より転載
著者プロフィール
小津夜景(おづ やけい)
俳人。フランス在住。『出アバラヤ記』で攝津幸彦記念賞準賞、句集『フラワーズ・カンフー』で田中裕明賞を受賞。著書に『カモメの日の読書 漢詩と暮らす』『漢詩の手帖 いつかたこぶねになる日』など。
詳しくはこちら
一覧に戻る
