コトバのひきだし ──ふさわしい日本語の選び方
第10回 「やばい」信号、黄色か青か?
関根健一

「新しく出した店舗はどんな様子かね?」
「うーん、やばいっすね」
「やばいって……お客が来ないのか?」
「いや、売り切れ続出で、もう大忙し」
*****
──仕事上のやり取りでは「やばい」は使わないほうがいいですね。くだけすぎていて改まった会話にはそぐわないというだけではありません。肯定的な意味なのか否定的に使っているのか、紛らわしいからです。
明治時代に出版された隠語辞典に「やばい」は「危険なること則(すなわ)ち悪事の発覚せんとする場合のこと」とあります。『警察隠語類集』(警視庁刑事部編 警察図書出版 一九五六年)には、「盗犯等の仲間に主として用いられるもの」とあって、「あやぶい」の省略転化と載っています。別に「夜間に這(は)う」からなどという説もあり、語源は定かではありません。いずれにしても、一般の人が日常、口にするような言葉ではなかったはずですが、身近に迫る危険を察知したり、困った状況が予測されたりしたときのひやっとした感覚が簡潔に表せて便利だったからでしょう、誰もが使うようになりました。
「このままじゃ成績がやばいことになる」「やばい! 遅刻しそうだ」など、注意を喚起するシグナルとしては、怪しげで荒っぽい語感がうってつけだったのかもしれません。
*****
ところが、否定的な使い方ではなく、「あの映画見た? やばいよ、今年のベストワン確定だね」「主役の演技がやばくて感動した」のように、肯定的に評価する「やばい」も最近ではよく見聞きします。否定的に使われていた言い方をあえて用いることで、強い肯定を印象付けようという発想から始まったものでしょうか。「やばい」を注意信号と捉えていると戸惑ってしまいます。
「仕事の量がやばい」のように、程度の激しさをいうときにも使われます。この場合も、こなせないほどの仕事を割り当てられて困っているのか、それともたくさんのオファーが来て喜んでいるのか、判断しかねる場合もあります。
*****
もともと隠語・俗語に由来する言葉です。もう少し「品格」のある言い方を使ってみてはどうでしょうか。いろいろな面で悪影響が予想されるなら「不都合」、損失、失敗を招きそうであれば「不利」、いつ何が起こってもおかしくない状態は「一触即発」などと表せます。その頻度や分量に音を上げているなら「凄まじい」「甚だしい」ですね。反対に、望ましいことについては、「極上」「秀逸」「卓抜」、同じ類のものは数あれどその中でも、と強調するなら「比類ない」はどうでしょう。
こうして言い換えを考えてみると、伝える側の教養や真摯な姿勢が感じられて、改まった場にふさわしくなるだけでなく、意味を限定して明確に指し示し、誤解を防ぐ効果もあると気づきます。
*****
否定的な意味だったのが肯定的に使われるようになった言葉には「こだわる」もあります。
「老舗というこだわりを捨て、形式にこだわらない斬新なメニューを提供しています」
「執着せず、拘泥してないってことですね」
「素材にこだわった、こだわりの逸品です」
「追求して、厳選しているというわけですね」
*****
本来の意味や用法が変化していても、雰囲気で何となく伝わるかもしれません。ただ、両方の使い方が入り混じると混乱しそうです。特に、よく知らない相手、不特定多数の人たちに発信するとしたら、その意味をはっきりと示すことが肝心です。その際には、「品格」を意識した言葉選びをヒントにしてはどうでしょうか。
『国語教室』第118号(2022年10月)より
著者プロフィール
関根健一 (せきね けんいち)
日本新聞協会用語専門委員。元読売新聞東京本社編集委員。大東文化大学非常勤講師。著書に『なぜなに日本語』『なぜなに日本語 もっと』(三省堂)、『ちびまる子ちゃんの敬語教室』(集英社)、『文章がフツーにうまくなる とっておきのことば術』『品格語辞典』(大修館書店)など。『明鏡国語辞典 第三版』編集・執筆協力者。
一覧に戻る