古典

青山あり! 中国祠墓紀行
第四回 印山越国王陵(浙江省紹興市)
平井 徹

 浙江省紹興市は、春秋時代の越国の都であるとともに、文豪魯迅(ろじん)の故里でもある。魯迅はいう。「勾践の遺跡は今も変わらず存在しているが、郷里の男女は斜めに見て通り過ぎ、顧みようとはしない」(『会稽(かいけい)郡故書雑集』序文)と。

▲印山越国王陵博物館内の越王允常の墓室。(2006年撮影)

 二十世紀も間もなく終わろうという一九九八年、人々の耳目を惹く大規模な考古学的発掘調査が行われた。「印山越国王陵」は紹興市内から西へ約十三キロ、書家王羲之(おうぎし)にまつわる名勝「蘭亭」から二・五キロほどのところにある。印山は印璽の形に似るところから命名された俗称で、歴史的には木客山(ぼっかくざん)と呼ばれる。『越絶書(えつぜつしょ)』『呉越春秋(ごえつしゅんじゅう)』には、いずれも勾践の父允常(いんじょう)を木客山に葬り、「木客大冢(たいちょう)」を築いたと記す。王陵は「甲字形」で、地下墓道の長さは五十四メートル、つきあたりに三角形の木組みの墓室(前室・中室・後室に三分割される)が設けられていた。現在、発掘現場を覆うかたちで博物館が建設され、一般公開されている。二〇一二年の再訪時には、見学通路が新たに整備されていた。

 ちなみに、現時点で越王の墓と確認されているのはここだけであるが、二〇一九年、浙江省湖州市安吉(あんきつ)県で越の王侯級陵墓が見つかったとの報道があり、今後の展開が注目される。

 同じ紹興市街の西、臥龍山(がりょうざん)南麓には、勾践にまつわる遺跡「越王台」があり、呉越の興亡(日本の軍記文学『太平記』にもそっくり収められている)で知られる勾践の宮殿跡と伝えられる。この地は春秋時代に越国の王城があったところで、『越絶書』には具体的数字を列挙しつつ、その豪壮さを強調している。南宋の嘉定(かてい)十五年(一二二二)、この地の地方長官によって大規模に整備され、山上に築かれた楼閣や亭の総数は七十二にものぼったという。現在、域内に鬱蒼と茂る柏(はく)(常緑樹のコノテガシワ)の中には、この時期に植えられた古木も多い。

 現在、この一帯は府山公園として整備されている。府山の名は、かつて紹興府の官衙(かんが)がこの山の東麓にあったことに由来する。南の大門から入って、急な石段の坂道を登っていくと、公園の中心部に位置する越王殿にたどり着く。現在の建物は、一九八一年に再建されたもの。園内には、勾践の名臣として范蠡(はんれい)と並び称される大夫文種(ぶんしょう)の墓(勾践に死を命じられた後、この山に葬られたことから、種山とも称する)、北宋期に知州(州長官)として赴任した文学者、范仲淹(はんちゅうえん)の文章にちなんだ清白堂などが点在する。勾践が肝を嘗めて「会稽の恥」を雪ぐことを誓ったのはこの場所であり、この一帯と古代日本(倭)が海上を通じて往来があったことを想像するのも楽しく、同時に、李白の名詩「越中覧古」を思い浮かべ、在りし日の勾践の栄華を偲んだのだった。

『国語教室』第115号(2021年4月)より

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