青山あり! 中国祠墓紀行
第五回 柳侯祠・柳宗元衣冠墓(広西壮族自治区柳州市)
平井 徹
- 2023.08.23

柳宗元(七七三-八一九)。字は子厚(しこう)。祖籍は河東(現在の山西省永済市)。中唐期を代表する詩人で、韓愈(かんゆ)とともに散文の改革を目指した「古文復興運動」の提唱者としても名高い。
貞元九年(七九三)科挙に及第(同年の進士に劉禹錫(りゅううしゃく)がいた)、後に王叔文(おうしゅくぶん)らが主導する「永貞の革新」グループに加わり、失敗に帰したことから、永州司馬に貶された。十年後、さらに南の柳州刺史に遷され、任地で病歿した。
柳侯祠一帯は、柳州市街の繁華な一角に現存し、市民の憩いの場となっている。もとの名は「羅池(らち)廟」(敷地内に同名の池が現存する)といい、死の直後の長慶二年(八二二)創建にかかる。柳宗元は刺史として善政を敷き(そのため、現代中国での評価も高い)、「柳柳州」と称された。僅か四年間の赴任に止まったが、現地の人々に慕われていたことがうかがえよう。
柳宗元の尊崇は、宋代にその度を加えた。哲宗の元祐七年(一〇九二)には、「羅池廟」に「霊文廟」の名が下賜され、徽宗の崇寧三年(一一〇四)には「文恵侯」、高宗の紹興二十八年(一一五八)には「文恵昭霊侯」と爵位が加えられている(ちなみに、祠の所在地は「文恵路」六十号)。
公園スペースから祠内に足を踏み入れると、人出もめっきり減り、あたりは静寂な雰囲気に包まれる。メインの大殿正面には、正装姿の柳宗元坐像が安置され、上の扁額には、「魂歸河東」(魂は河東に帰す)の四字が掲げられている。建築物は近年の重建で、特筆すべきことはないが、祠内第一の文化財は、点在する六十余りの碑刻(石碑)で、特に「茘子(れいし)碑」は一見の価値がある。
祠創建の翌年、柳宗元の友人でもあった韓愈は、廟の落成を聞いて、「柳州羅池廟碑」の一文を草した。二百年余り後、蘇軾(そしょく)がこれを字に書いた。柳宗元の事績に韓愈の文章、蘇軾の名筆ということで、後世「三絶碑」と称えられ、日本でも法帖が出版されており、書家にはすでにおなじみであろう。三者いずれも、「唐宋八大家」に数えられる文豪であることは周知のとおり。なお、「茘子碑」の名は、文章の後段の二字に由来し、碑の最も目立つ箇所に見えることからつけられたいきさつがある。
祠の裏手、羅池のかたわらには、柳宗元の衣冠塚がひっそりとたたずむ。死の翌年にその柩は長安に還り、郊外の万年県(現在の陝西省臨潼県)棲鳳原(せいほうげん)の一族墓地に埋葬されたが、柳州の人々は、その柩を見送った地に衣冠塚を築いて記念にしたと伝えられる。文化大革命時に破壊され、一九七四に修復された。「唐代柳宗元衣冠墓」八字は、祠正門の「柳侯祠」の扁額(地図上)ともども、現代中国の文学者郭沫若(かくまつじゃく)(一八九二-一九七八)の筆による。

▲万年県(現在の陝西省臨潼県)棲鳳原の衣冠塚
柳州は南方中国の風情が横溢した地方都市である。人々の気質も穏やか、食べ物も美味で、長く滞在してみたい思いにかられる。明清期にかけて築かれた城壁と東門城楼も美しく、市内魚峰(ぎょほう)山から馬鞍(ばあん)山まで渡されたリフトに十分間ほど乗って、海抜二七〇メートルの馬鞍山山上まで至ると、Ωを逆さにした形の柳江の流れと、その中に市街地が包まれているパノラマを一望できる。柳州で一番思い出深い一コマが、この絶景であった。
(写真はすべて2009年撮影)
『国語教室』第116号(2021年10月)より
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