古典

青山あり! 中国祠墓紀行
第六回 李廣墓(甘粛省天水市)
平井 徹

 李廣(りこう)(?~前一一九)。前漢文帝期から武帝期にかけての名将。隴西郡成紀県(現在の甘粛省天水市秦安県)の人。代々武門の家柄で、匈奴との七十余度にわたる戦いで功名を立て、とりわけ騎射を得意としたため、「飛将軍」と畏怖された。狩りに出た折に、虎と思い込んで射た石に矢が突き立ったというエピソードは有名。衛青(えいせい)と霍去病(かくきょへい)が大挙して匈奴に攻め込んだ折に別動隊を率いて進軍したが、道に迷って約束の期限に遅延し、その責任を負って自害した。

 部下に慕われる人柄の持ち主で、その悲劇的な死は、「桃李言(ものい)はざれども 下(しも)自(おのづか)ら蹊(こみち)を成す」の名言とともに、敵味方を問わず惜しまれ、その不遇の生涯は、司馬遷にひときわ情熱のこもった伝を書かせるに至った。中島敦の小説で有名な李陵がその孫にあたることは、広く知られている。

 「隴西の李氏」は天下に名だたる名門となった。遥か後代、唐王朝を建国した李氏は、その出自が鮮卑(せんぴ)系の貴族であったにもかかわらず、自ら李廣の子孫と称した。詩人李白の出自も、いわゆる「胡人」(西域の非漢族)との説が有力であるが、彼の伝記には、「隴西の李氏」と記されている。中国の説話「人虎伝」、それに想を得た中島敦の小説「山月記」のいずれも、その主人公は「隴西の李徴」である。

 李姓を名乗る人口は一億人を超え、全世界で最大級の姓とされている。李氏朝鮮、ベトナムの李朝、果てはシンガポールのリー・クワンユー元首相、台湾の李登輝元総統のルーツもこの地だという。天水市の西、定西市隴西県には壮麗な「李氏故里」が整備され、世界中の李氏が訪れるのだそうだ。ちなみに、かつての中国で絶対視されていた「同姓不婚」の原則は、仮に同姓であっても、同じ祖先から出たのでなければ(「同姓不同宗」という)許容されていた。

 市街地の南、文山山麓に現存する李廣墓は、後世になって築かれた衣冠塚である。その起源はわからないが、清の乾隆(けんりゅう)年間には同地に墓が存在したという記録がある。現存する大門や「飛将佳城」の力強い墨痕が印象的な門額は目新しく、清代の建築物である享殿(きょうでん)にも修復の手が加えられていた。こぢんまりした敷地の奥にある衣冠塚(周囲の長さ二十五メートル)のかたわらに、「中華民国三十三年十一月一日立碑/漢将軍李廣之墓/蔣中正題」と刻まれた、方形の煉瓦作りの碑が建っている。大陸では稀有なものに違いあるまいが、蔣介石(中正が名、介石は字)が天水騎兵学校を視察する目的でこの地を訪れた際に揮毫し、墓碑建立を託したのだという。第二次国共内戦の前夜、ひととき李廣の墓前に佇んだ彼の胸中に去来したのは、いったい如何なる想いであっただろうか。

(写真はすべて2007年撮影)

『国語教室』第117号(2022年4月)より

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